【方法論】【紙さんpart1】今この世界で完璧を見る決意をする

達人part
質問さん
質問さん

別の領域というものがよくわかりません。
何かイライラしたり不安になる思考をしてると「あーイライラしてるな」という思考に切り替わりますが、これはつまり「ネガティヴな思考」というエゴが「客観視しよう」というエゴに変わっただけで、依然エゴを持ち続けていることに変わりないのではないですか?
あと、特に思考しているつもりはないのに、不安な状況下で胸が苦しくなったり、動悸が激しくなるといった不快は、どう扱えばいいのでしょうか。

達人さん
達人さん

結論から言えば、どう頑張っても別の領域からは出られませんから、心配せずとも大丈夫です。
エゴは持ち続けて構わないですよ、無くすことは出来ませんから。
「 不安な状況下で動悸が出る」というのは人間ですから、ただの反応、反射です。
それをなくそうという事は、「鼓動を止めよう」ということに似ていますよ。

ですが、その不安な状況下、状況に「不安」というラベルを反射的に貼ったじゃないですか、不安だと貼ったけど、もしかしたら不安なものではないかもしれないと、不安のラベルを剥がす作業はしてもいいかもですね。
はがした後は、上から無理やり「安心・完璧」ラベルを貼る必要はありません。
剥がすだけでいい、何故ならば元々の全ての属性が「完璧」だからです。
それについてエゴが納得、理解するまでは見張る必要はない、剥がして放っておくと良いですよ。

質問さん
質問さん

別の領域に執着していて、この執着はどうすればいいのでしょうか?

達人さん
達人さん

別の領域を理解したからといって、今望んでいらっしゃる、いわゆる「エゴの願望」がまるまる実現するとは限りませんよ。
別の領域を魅惑の桃源郷のように思っていらっしゃいますが、そんな執着するほど大した話ではないですよ。

エゴが思い描く具体的な願望を叶えることが、幸せに直結するとは限らないのです。
エゴが思い描いたそのままの願望を何度も叶えた結果、その度不足が生じ、上塗りに上塗りを重ねる作業になり、非常に疲れましたよ。

しょせんエゴが思い描く具体的な完璧な幸せには限界があるのですよ。
具体的な詳細は、神なり別の領域なり、何でもいいですが、エゴ以外に丸投げすればOKです。

質問さん
質問さん

エゴ以外に丸投げとありますが、どうすればよいのでしょうか

達人さん
達人さん

エゴには不足だらけに見えているこの目の前の世界が既にあり、完璧だからです。
別のところではない、今、目の前の世界の事を完璧だと言っています。
既にあり、完璧にも関わらず、エゴの狭い視野、価値観、浅い経験からは、そうは一切考えられないので、あれこれいじくり回し、右往左往するのです、それをまずやめろという事です。
そして、もう一歩進めると、あれこれ悩み、右往左往も含めての完璧なのだから、好きなようにしろ、という事です。

全ては神の手のひらの上、神の完璧という名のシナリオ通りだから、安心して思うように全身全霊、全力で生きろ、という意味です。
例え今、エゴが最悪だと判断したとしても、思い込みや、我慢、妥協などは一切無しで、その完全性がどんなにひねくれたエゴにでも必ずわかります。

そうするとどうなるか、エゴが全く思いつかなかったものが現れ始めます。
大抵の方はエゴが考えた最高の幸せ以上のものはない、と思っていらっしゃると思います。
ですがしょせんエゴが考えたものなので、想像出来得る圏内のものです。

想像の枠は、無限に広げたつもりでも常識、経験など様々な要素により制限され、ドームのような形になっている。
エゴが考えた最高の幸せとは、ドームの内側です。
逆に外側は無限。

ドームの外側はドームの内側以上の喜びを与えてくれるものです。
別の領域はドームの外側でも良いですが、本来別の領域とはドームの内側も含めた全てです。
エゴはドームの内側にいる、それも全て含んでいます。

完璧なのだから、物理現実に振り回される必要はない。
ネガティヴな感情は、物理現実を未だ完璧だと思えないエゴの反応なので、放っておけばいい。
安心して思いっきり人生を満喫してください。

私はエゴが抱いた殆どの願望を、エゴが戦意喪失するくらい、遥かに超えた形でいくつも叶えていますが、それよりも何気ない毎日の方に強い幸福感をいだきますよ。
ですからエゴの願望実現が、幸せに繋がるとは限らない。

願望についてですが、願望は本来喜びです。
何故叶えたいのでしょうか。
そこには様々な理由があるかと思います。
今感じている不足を埋める唯一絶対、強力な手段としてエゴが厳選し必死で生み出した願望に、人は執着しがちです。

願望自体を、今感じている不足から脱する手段として捉えているからです。
願望が叶ったとしても、不足からは脱せない。
例えるなら、願望に執着とは、地獄から脱する為に蜘蛛の糸の出現を必死に空を仰いで祈っているようなもの。
蜘蛛の糸が垂れてくることもあるかもしれない、蜘蛛の糸に一時的に歓喜して登るが、糸の危うさ、空の高さに不安になり、結局歓喜は消え、また恐怖に飲み込まれるか、糸が切れて落ちます。
願望は、不足を感じている今から脱し、幸せをくれる引き換えチケットではない。

願望は、ただ喜びや潤いを与えてくれるものです。
地獄から天国になるようなものではない。
「叶ったら嬉しいなー」は、その通りです、ですからその程度の軽いものなのです。
「先に幸せになれ」と仰っているのは、願望は地獄から天国行きのチケットのような重たいものではない。
エゴが必死で天国とはこういうものだ、と考えたものが全て叶ったところで、そこは天国ではない。
エゴの限界を痛感して同じ事を繰り返すだけです。

必死になり、蜘蛛の糸が降りてくると予想した1点を集中して見つめるとそれ以外は見えない。
後ろから声をかけられても気付かないか、邪魔するなくらいにしか思わないでしょう。
後ろには天国が広がっているにも関わらず、見えないのです。
後ろというより、最初から天国にいたのです。
しかし暗くてわからなかった。
恐怖から「ここは地獄だ」と判断し、脱する手段を考え、天を仰いで1点集中してしまう。

神は最初、あなたに声をかけた。
次は肩を叩いて周りを見るようにと言った。
しかしあなたは気付かない。
今度は鞭で打った。
あなたはやはり地獄だと判断し、目を閉じ、祈る事に専念しだした。
これだと、神はタライを落としたりして、呼び掛けを過激にしていくしかないですよね、これが再配達の仕組みです。

108さんが何を言っているかというと、「目を開けろ、周りを見ろ、今いるここが、天国であり、他にはない」。
頑なに目を閉じ、見ようとしないから、タライやら水やらを被り、鞭を打たれただけだ。
あなたは、すぐには目は開けられないかもしれない。
ここがあなたが目指していた天国だと信じられなくても大丈夫、ここが天国であることは揺るがない。
あなたがすべき事は、「目を開けよう」と決意し、ゆっくり開けていけば良いだけである。
目を開けて、今実は天国にいたのだったという真実を見る事と、叶ったら嬉しい、とウキウキする事と、蜘蛛の糸の出現を必死で願う事は全く別の事なのだ、という事です。

今不幸だと思った状態で、願望が叶うと狂喜乱舞するでしょう。
そしてそれを失う事への恐怖が生まれる。
今幸せな状態で願望が叶うと、勿論嬉しいですし、その瞬間声を上げたりもしますが、日々日常を新鮮な気持ちでワクワクしながら経験し、生きていく恍惚感と比べれば、叶う事自体は生活の一部なのです。
叶った後のものは全力で楽しむ。
「日々起こる出来事を全力で全身全霊味わうこと」と、「高揚感」は変わらない。
惰性で生きているのではなく、子供時代、毎日が冒険だった、そんな感じ方、経験の仕方、生き方です。

願望が叶う事に集中するよりも、人生を楽しむ事に夢中でいると、大抵叶った時に、「ああ、そういえば欲していたな」と思う事もあります。
「あれが欲しい」と思ったものは既に持っていたり、欲しいと思う瞬間に、どこかから「これが欲しいか?」と差し出されます。
まだ物理現実上に現れていないものもありますが、エゴでもわかるレールに乗っているので、まあそれも叶うでしょう。
「叶う・叶わない」はどうでも良いのです、願望を抱くこと自体が楽しいものなのです。
そのほうが気が楽ですよ。

願望が叶うことで、不安や恐怖から解放されるわけではないですよ、全く繋がりはありません、勘違いですよ。
皆さんは、恐らく「願望が叶ったとしても幸せが続くとは限らない」ということは本当はご存知だと思うのです。
ですが、願望が叶って幸せになりたいと願う。
これは花火を見るように、叶った瞬間というものを喜びたいだけという意味ではなく、願望が叶い、永遠にそれを味わい幸せを感じたいという意味だと思うのですがいかがでしょうか。

ですが願望が叶ったとしても、その後も幸せだと言える人物は、そもそもどんな状態でも幸せでいられる人物だという事はお気付きでしたでしょうか。
あなたは、願望が叶った、その後折角苦労して得たその幸せを失うかもしれないという新しい恐怖に取り憑かれない自信はありますか?
わかりやすく恋愛で例えると、意中の人と結ばれて、その後、浮気や裏切り、心変わりや別れの恐怖に飲まれない自信がありますか?

「相手が常に誠実であるようになんとかしなければ…」と、またスタートを切るのではないでしょうか。
実際今までもそうされてきたのではないでしょうか。
これがエゴのゲームです。
あなたは願望が叶い、幸せを永遠に感じられるということを願った。
それは、「どんな状態でも幸せでいられる自分になる」という事です。

「幸せでいること」と「願望を叶えること」は別の全く繋がりのないものであることを受け入れ、それでも両方欲しい、と思われたのなら、まずどうぞ、ここで幸せを感じる覚悟を持ってください、決意をしてください。

つまり、「この世界の完全性を見る覚悟」です。
あなたが不足だ、最悪だ、地獄だ、と感じているこの場所でです。
他のどこでもない、今ここ、この世界でです。
思い込むのではなく、我慢や妥協をするのではありません。
そうしないとこの世界が完全だと思えるはずがないと言うのは、この世界がこのままで完璧である、ということを認めたくないエゴの言い訳です。
思うのではなく、見るのです、そのままの意味です。

誤魔化しではなく、あなたが今この世界を感じている方法、五感で見る。
エゴが完璧だと心から思ってしまう充足を見ろ、と言っているのです。
そしてそれは既にある、本当にあります。
あなたがこの世界の充足を見る決意をすればいいだけです。

108以外質疑応答【12】
https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/10211/1384183055/
949: 紙 :2015/12/08(火) 05:27:12 ID:z.TCSQ4s0

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