私は、嫌なことが立て続けに起こっていて、仕事中に、決定的となる出来事が起きました。
逃げるように早退をして、死ぬことに決めて、死ぬ方法を調べていました。
すると、あるサイトに辿りついてから、「元祖一式」の「思考を停止する」メソッドを思いだして、今までのことが色々と繋がって、スッキリしました。
私は過去に、全てがうまくいっていたときが、何年かあったのですが、その時は、将来のことや、他人の評価については、何も考えていなくて、今楽しいことを、その場の思いつきでしていたんです。
潜在意識については知りませんでしたが、「必要なときに、必要なものが勝手にくるだろう」とか、「やらなきゃいけないときは、神のようなものが、勝手に背中を押してくれるだろう」などと思っていました。
そして、現実的にもその通りになって、その時に始めたことは未だに続いていますし、現在の私のキャリアに役に立っています。
ですがその時は、「そんなの当たり前だよ」ぐらいに思っていたので、気にも留めていませんでしたが、今振り返ってみると、奇跡的なことが数々重なっていて、出来事が起こっていました。
また、学生の頃には、「お前は色々とゴチャゴチャと迷っていても、結局は一番最初に言っていたことをするよね」ということを他人から言われたことがあります。
もちろん、そのときに私が言っていたことは、その後に成功しています。
ですが近年、ことごとく、人生がうまくいかなくなりました。
笑えるほどに、やることなすことがダメでした。
それは、「チケット」を読んでから、「自分で自分をコントロールすれば、現実をなんとかできるんだ」というように、勘違いして、自分で考え始めてしまったからです。
私が何が言いたいのかと言うと、「デフォルトの状態で、最高のものを産み出している」ということです。
「思考」というのは、デフォルトの状態に、様々なものをかぶせていて、デフォルトの状態が表面から見えなくなるようにしている「塵」に過ぎないのです。
たとえ、「頭が良くて、賢い思考だ」と思われるものであっても、デフォルトの状態には敵わないのです。
この「デフォルトの状態」というのが「元祖一式」でいうところの「潜在意識」であり、神とか、宇宙とかであり、「チケット」でいうところの「別の領域」なのだと思います。
つまり、「人間は、何もしなくても「神」であり、そのままで「完璧」であり、「正解」である」ということです。
それなのに、「自分には何かが足りない」とか、「自分は間違えているのかもしれない」と思ってしまって、何かをしようとするから、最高の状態から下がっていくわけです。
このことは、「願望は思いついたときに叶っている」という話にも繋がると思います。
「デフォルトの状態ではダメなんだ、任せてはおけないんだ、なんとかしなければいけないんだ」といったような勘違いが起きてしまって、デフォルトの自分に対する不信感が、全ての不幸の根源であると思いました。
このように、思考でたくさん説明してしまいましたが、私はもう、思考には、本当の私の邪魔をさせないようにしたいと思います。
近年の「私に起きている不幸」というのは、だいたいが、「他人に邪魔される」というものでした。
それは見事に、「自分が自分にしていること」が、私の世界に発現してしまっていました。
「チケット」も、「元祖一式」も、「瞑想」も、「なる」も、「アファ」も、全てのメソッドは、自分の偽物に自分の本体の邪魔をさせないものであり、同じものであるとも思いました。
全てがうまくいっていたときの「私のメンタリティー」は、実は、その前に痛い経験をしていて、「私が何をしようと、何を思おうと、全ては無駄であり、なるようにしかなってくれない」というような、「諦めに近いもの」でした。
なので、自分でどうにかすることはやめていました。
逆説的ですが、何も期待していないので、内面が穏やかでした。
それと同時に、「なんだか知らないけど、必要なものは勝手に来るんだ、それは、自分の表面的な気持ちとはあまり関係がなくて、自分の中に何かがあって、「必要な時期」になったら、それが知らせてくるんだろう」みたいに思っていました。
今思えば、「潜在意識的なもの」を信頼していました。
「そのときに叶ったこと」に関しては、「意図」も「期待」もしておらずに、もちろん、願ってもいませんでした。
ですが、実現が起きたときには、「あぁ、なんか知らないけど最高な形になったね」というような感じでした。
当時、何気なくしたことが、実現に繋がっていたり、何年も前に、自分とは関係なく起こっていたことが、実現の助けになっていたりしました。
そのときの自分は、思考は普通にしていましたが、「でもまあ、考えてもムダだしね」というように思っていました。
それは、「思考に力を持たせていなかった」ということかもしれません。
近年の「私がしていた勘違い」というのは、「思考する」という「行為そのもの」に対する勘違い」というよりも、「思考になんらかの力がある」という概念に対しての勘違い」をしていたのかもしれません。
これからの実践でも、「思考を追いやる」ということよりも、思考を間に受けずに、淡々と、「内なる神を信頼する」ということに、重きをおきたいと思っています。
それは、「思考の観察」でもできると思いますが、ときどき、「思考が言うことが本当だったらどうしよう」などと思ってしまうので、思考に力を持たせてしまいそうなときは、問答無用に思考を止めるしかないと思います。
私の体験が、何かの参考になれば幸いです。
達人スレ元祖1式part2
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975 : 幸せな名無しさん :2019/10/26(土) 14:09:47 1BDcpLvg0