どんなスピ系の本にも、仏教でも伝えられてることだけど、自分を定義するのは不可能だ。
名前や、生まれや、職業など、自分を取り巻く状況や、設定でしか、自分の存在を感じることはできない。
街を歩いていて、通り過ぎる車の音、気温、匂い、そういうものを体感している時しか、自分の存在を感じることはできない。
いい人の笑顔、嫌いな人のムカつく態度、そういうのを感じてる時しか、自分の存在を感じることはできない。
つまり、1-1=0。
自分を浮かび上がらせているその他が、自分の中でその他を自覚した時、ゼロになれる。
これがワンネスだ。
よく、他人は自分だった、世界は自分だった、と言われるけど、勘違いしている人が多い。
そういう意味じゃなく、1-1=0、ということだ。
例えば、自分の手を描くとき、手から書くのではなく、手の周囲の風景から書いていく。
すると手は書いていないのに、最終的に手が浮かび上がる。
これが自分、つまり、それ自体は存在なきものだ。
形のないものでも、あるものでも同じだ。
明日自分は死ぬんだと心から思い込んでみなさい。
絶対死ぬんだよ、すると今が見えてくる。
くだらない悩みや不安、他人への好き嫌い、そんなものが吹っ飛んでいく。
それどころか、通り過ぎていくガードレール、ゴミ箱の中の丸まったティッシュ、名前も知らない街の人々、
さらには、自分を悩ませていたネガティブな悩みの数々にまで、存在してくれて、本当にありがとうと思えるようになる。
なぜならば、それらが自分だったと気付くからだ。
無様に生にしがみつくか、生きることをあきらめるかだよ。
じゃあ、あきらめてはどうか。
私は何度も死にかけたけど、体の生命力で生きてる。
ちょっと疲れたけど、みんな一生懸命いきてるんだな。
いや、だからあきらめろって。
つまり、未来をあきらめろ。
明日とか、1時間後とか、完全に破壊しろよ。
今より先は無い、そう意識しながら生きなさい。
結局未来に無駄な希望とか持ってるから、一生懸命生きてるとか、そういうことを思うんだよ。
希望とかないです、
生きてるだけで一生懸命って意味です。
未来を破棄しなさい。
完全に破壊しなさい。
今以降は完全抹消だ。
先の支払いとか、約束とか、義務とか、そういう妄想の世界は完全に捨て去りなさい。
あるがままに、虫のように、ただそこに在りなさい。
それが嫌か、なんでだ?
未来を完全に抹消しろよ、明日この世にいない、それを理解しなさい。
明日はない、だから私は、自由を得たんだよ
明日はない、それを理解することで、あなたは自由になる。
あとは、欲求のままに生きるだけだ。
頭では理解できないけど、悲観するわけではなく、泣く事しかできません。
何があったのか知らないけど、そういうことがあって良かったじゃん。
その出来事なり、事実なりがあなただからね。
あなたというホントの存在を感じて、あなたはそこにいる。
生きることをあきらめれば、より良く生きられるなら、癌の宣告が社会問題になるはずがない。
末期になってもなお、今という包まれている世界を感じることができなければ、それは苦しいだろう。
苦しむ人を放っておかないのがこの社会だから、それはそうなるだろう
さっきも言ったように、自分がその他を自分の中で自覚したときにゼロになれる。
つまり患者は病気を患っているのではなく、病気そのものが、その人なのだよ。
外を歩けば、視覚やら聴覚やらを刺激する様々な事象があるだろう。
五感は、それら外的な要素がなければ、自らの存在を認識できない。
そして、その五感を刺激する様々な外的要素も、それ自体では存在を認識できない。
例えば、カローラという車があるが、それがそもそも何なのか、説明は不可能だ。
名称、色、形、使い方、構成部品、価格、すべてそれ自体を語ってはいない。
物だけではない。日々起こる出来事も、実はそれ自体の本質は解明できない。
つまり、この世のすべては本質が語れない=本質などないのだ。
すべて、外的な要素が組み合わされ、その隙間のような空間に、存在らしきものを、我々は認識する。
だが、それは単なる隙間、何もない。
繰り返すけど、その隙間を構成している外的要素がなければ、隙間は生まれない。
つまりそれは外的要素があって初めて存在を確率できる。
あなたが男で、朝に浴室で、シャワーを浴びたとする。
あなたは無職で、常に将来の不安に悩まされている。
同じ頃、年収100億の男が、浴室でシャワーを浴びている。
その男は、経営する会社の今日の会議について考えている。
素っ裸の2人は、単にキャラ設定が違うだけであり、本人も、設定も、本質を持たない。
レストランに行けばウェイトレスが、ウェイトレスを演じて席まで案内してくれる。
彼女はウェイトレスか、いや違う。
ウェイトレスとは、概念上の産物で、レストラン、客がいて、初めて成り立つキャラ設定だ。
つまり全部、架空の物語なんだよ。
勝手にゲームをしながら、ルールを作ってるだけだ。
じゃあ我々は何をするのか。
我々とは、普段自分と思い込んでる以外のすべてのことだから、何もしなくていい。
というか、何もできない。
目の前にやるべきことがあって、それが自分を通じて行動が起こる。
自分はやっていない。
だから、あれこれ苦しんだり、不安に悩んだりする必要もない。
金持ちになろうとも思わなくてもいいし、死のうとも生きようとも思わなくてもいい。
ただ、そこに気付くためには、明日や未来というものを、脳から抹消するのが早い。
だから、すべてあきらめろ。
あきらめた方が、色々なことに気付くから。
あきらめて、いつもどおりの日常を過ごしなさい。
これだけ長文を書いて、読まれるとでも思うのか
私の文章が長いと、掲示板にそう書き込まれた。
つまり、本来自分と思っている以外のすべてが自分を構成しているわけだから、この書き込みがあったという出来事、そして書き込んでくれた人、それが私である。
それに反応するのか、しないのか、それはエゴと言われる領域だ。
前にも言ったが、多くの人は、外的要素が重なり合った隙間を自分と思い込んでいるが、実際はそこには何もない。
何もない場所にエゴが生まれる。
つまり、反応するかしないか。
仏教的に言えば苦しみが発生する。
本来は何もない場所に、苦しみが生まれる。
これは何を意味するのか。
これがまさに思考である。
思考は抵抗しか生まない。
本来あるがままに流れていけばいいものを、あれこれ考えて流れを受け入れない。
流れとは、本来自分と思っている以外のすべてである。
もし救われた人生を歩みたいなら、もし安心した生活を送りたいなら、日々起こる流れに委ねなさい。
あるがままの日常、その通りに生きればいい。
損得勘定とか、防衛心とか、いわゆる思考が生み出すものは、流れに抵抗するモーションしか取ることができない。
流れに任せるとは、あきらめること。
夢とかポリシーとか、こだわりとか、目標とか、そういうのをあきらめることだ。
あきらめた先に、本来の道が見えてくる。
あきらめた先に、いわゆる願望が叶う道が現れる。
願いなんていつも叶ってる。
水が飲みたい、水を飲む で1つ叶えただろ。
いつの間にか、だれかが水道設備を整えてくれてただろ。
こういう一見当たり前に思えることに奇跡を感じないから、悟りとか気付きとか、釈迦が説いた訳である。
つまり、釈迦やキリストが伝えたことは、ごく当たり前のこと。
だけど、その当たり前の素晴らしさに誰もが気付かない。
では、お釈迦さんの説いた、因縁生起について話そう。
縁が縁をつないでいるという内容だけど、実際はもっと深い。
例えば、あなたが家を持ち、車を持ち、そして家族がいるとする。
あなたは家や車を自分の収入で買い、家族を養っていると自覚している。
だがそうじゃない。
あなたを必要とする他者がいるから、あなたは家や車、そして収入を得ているのだ。
要は、あなたが手に入れたものではない。
そういう設定を与えられたまでのことだ。
そして逆にその他者はあなたが必要とするから、存在しているのだよ。
つまり、その他者が妻ならば、彼女があなたを創った。
彼女が自ら発生した意図のため、必要としたから、あなたは彼女に創られたんだ。
だから彼女の目的達成のためにエージェントとして役割を全うする必要がある。
彼女は家庭生活を意図したから、あなたは夫という役割を与えられた。
円滑な生活のために家や車を生み出された。
これは町ですれ違う人々、会社の上司、家族、コンビニの店員なども同じだ。
コンビニは客が必要だから、あなたが創られたんだ。だからあなたはそのコンビニに訪れた。
いくら使うとか、そういう話じゃないよ。お客さんという役割のため、あなたは創られたんだ。
すべては概念だ。
生命体だけではない。
道も音も、光もすべて、それらが自らの認識を必要としたから、あなたのそのレスポンスの為に、用意されただけだ。
あなたは、道を感じながら歩けばいい。
これが因縁生起だ。
だが家や車から見た視点では、またあなたが生み出された。
つまりそれらを辿っていけば深いうさぎの穴になる。
でも最終的に行き着く先は何も無い。
概念=レッテル=幻があるだけだ。
あなたの奥さんは、単なる生物だ。
だけど過去のエピソードや、様々なレッテルから、自分の妻だと認識しているが、それはそういうレッテルを貼ってるだけである。
レッテル=概念=幻だ。
マネーゲームから脱出する本の中の幻やホログラムを勘違いしている人が多いが、その生命体は確実にそこにいる。
だが、その生命体にこれはかくかくしかじかな経緯があって、私の妻だとレッテルを貼って妻になっているだけだ。
つまりあなたが妻を創ったが、実際はそんなものいない、ホログラムだ。
でもそこにいる。
家も、所有物も、すべて、それぞれが、ただ存在しているだけだ。
そこにレッテル=幻を加えることが、ホログラムだ。
あなたの今置かれている状況のすべては、他者への役割を全うする為に設定されている。
前にも言ったが、本来自分と思っている以外のすべてが自分であるから、つまり自分がすべての設定を、あなたに与えているというわけだ。
あなたがいま、服を着ているとすれば、服自体も、服を作って生活している人も、流通や販売店の人も、その店を改装した業者も、服の素材を生み出した自然も、なんもかんもすべて、あなたが服を着ることで、それらの役割が全うされ、そしてあなたも役割を全うしているんだよ。
一生懸命働いたり、人のために役に立とうとしたり、ってのもその時点で役割を全うしてるが、あえてそんなこと考えなくても、あなたがそこにいる時点で、幾万の役割を全うしている。
つまり、あなたはただ、そこに存在しているだけでいい。
その視点を保ち続けるのは、困難な事だよ
視点を保ち続ける、というが、私はその意味がわからない。
ただ存在しているだけで、その視点にいると思う。
日常での仕事や学校の為に、一度電車に乗れば、もうすでに時間の概念に囚われてしまいます。
仕事、学校、電車、時間、これはあなたが書いた言葉だ。
なぜそれらがある?
あなたが創ったのではないか?
そしてそれらも、対象、つまり学校なら生徒が必要だから、あなたが創られた。
日常生活をよく見渡しなさい、常に注意深くありなさい。
ごく単純に、ごく当たり前に、不思議なことに気付くだろう。
引力の法則をニュートンが提唱し、引力という作用があることを人類は知った。
だが、引力がそもそも何なのか、未だ解明されていない。
とても矛盾してると自分でも自覚してるのですが、囚われている現実が、疎ましくてたまらないと同時に、その疎ましい現実がとても愛しいものなのです。
そして同じ視点で周囲とかかわり、愚痴ったり泣いたりすることも、とてつもなく煩わしくもあり、大事なものなのです。
その状況のすべてがあなただ、それを早く理解しなさい。
事実は、すべて逆だ。
苦しむ必要もないよ。
引力の話を書いたのは、結局すべての物事に、本質はないということだ。
つまり、他者がイメージした概念だけがそこにある。
この世界は概念しかないんだよ、だから幻である。
でもあるがままの実体はある。
だけどその実体を認識するのに、10人が10通りの概念を持つ。
概念により、その実体が実体たる存在を与えられるのだ。
つまり概念ありきだけど、あるがままのそれはある。
しかしそれは概念がなければ、自らを立証できない。
結果、たどり着くのは無である。
宇宙は探しに行ったから存在する。
その通り。だが探しに行かなければ存在すらない。
フィールドとは極めて単純である。
すべてどうでもいいにしてしまえば、苦は生まれない。
◆◆「ザ・マネーゲーム」から脱出する法12◆◆
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557 :名無しさん@お腹いっぱい。:2013/06/08(土) 23:49:08.98 ID:jhoFsZUT