「今に在る」という状態がわからない、感じ方がわからない、という人が多いようだ。
単なる意識の置き方なので、簡単といえば簡単なのだが、つまりは、思考が完全にストップするということだ。
だが、思考を止めようとしてはいけない。
止めようとするということは、思考が作用しているからである。
ただ五感を通して感じられるものだけに意識を持っていくだけである。
耳を澄まして、自らの周囲、360度の音を聞いてみなさい。
その時、「今」に入っているだろうが、不慣れな場合、「これが今ってやつなのかな」などと思考が働きだすだろう。
その時点で思考に支配されている。
ただ感じるだけだ。
何からでも「今」に入ることができる。
ちなみに思考ではなく、脳裏に浮かばせるイメージからも、今に入ることができる。
イメージに思考を与えなければいくらでも可能だ。
両手を感じなさい、手の存在そのものを知るのだ。
歯でも股関節でも、どこからでも「今」に入ることが出来る。
我々は普段それらの存在を意識していない。
歩いているときは、光、音をただ感じなさい。
言葉に翻訳してはいけない、ただ感じるのだ。
気温、風、地面、感じている間、あなたは今に在る。
そして時間など錯覚がもたらせていたものだと知ることができる。
常に、今しかないのだ。
「悟り」や「気付き」が、「何かをもたらせてくれると、なんらかの「希望」を持っている人が多いようだ。
我々が快適、不快とか、幸福、不幸とか、そういう概念は、その通り、単なる概念である。
3年前に興味のなかったサッカーにいま夢中だったりするように、常に概念は移り行くものだ。
それは諸行無常といわれる、マネーゲーム本では幻と書かれている。
我々は生きている、それがすべてだ。
だが生きていることが実感できずに、趣味とか、他者と比較しての幸福とかで、生を感じようとする。
病気で療養中の人も同じだ。
他と比較することで自らを苦しめている人が多い。
違うのだよ、我々は生きている、それが答えであり、すべてだ。
悟りや気付きとは、我々が虫や鳥たちと同じように「ただ生きている」ことに気付くための単なる言い回しである。
そして、すべての出来事に「意味」を持たせようとする。
たとえば、「あれ、こんな偶然、これって何かの運命なのかな」みたいなやつだ。
正直に言わせてもらえば、あなたが生きている時点で「奇跡」だ。
つまり、あなたが生きている間に起こる出来事などはすべて、ありえないぐらいに奇跡的なものだ。
だから、あなた自体が奇跡の存在と言える。
つまり奇跡などないのだ。そして意味もない、すべてが意味であるからだ。
我々は地球に生えたカビのようなものだ。
地球のサイクルにより、流れが決まっている。
地球もさらに大きな視野のカビのようなものだ。
さらに大きな視野のサイクルにより流れが決まっている。
つまり、それら流れが我々であり、本来の自分である。
暑さ、寒さを知るためには、いわゆる、二元論の立場に入らなければならない。
では「今この瞬間」を感じる、というのを知るためには、そうでない状態にいなければならないのだよ。
釈迦もキリストも現代の覚者たちも同じだ。
なぜならば、言葉を話し、飯を食い、睡眠を採っている。
つまり「今」以外の状態を知り得る状態、エゴの状態があるからこそ、「それ」を捉えることができるのだ。
私も、あっちとこっちを行ったり来たりだからこそ、それぞれが在ることが、理解できるのだ。
つまり、「すべてどうでも良いことだった」、これに気付くことが、あなたを解放に導くだろう
ゼロに入りなさい。
はっきり言えることだが、大学に受からない人は、どれだけ時間を積もうが、金をかけて予備校に通おうが絶対に受からない。
運命論のようだが、それはあくまで伝え方の話だ。
だが、大学に受からない結果があったとしても、それに情熱を費やした思い出が残っただろう、様々な出来事や出会いがあっただろう。
結果の善し悪しは、我々人間が勝手に決め込んだ価値観だ。
だが神や宇宙や、大いなるなんとかは、「今」を大切にする。
つまり、今体験している、情熱、夢、行動、悩み、不安、それらのものが生まれることが「喜び」なのだ。
クラウドアトラスという映画の主役は、登場人物ではない。
主役、つまり本来の自分は「脚本」である。
脚本は流れだ。
登場人物が、それぞれのシーンでどんな不安や悩み、希望を持とうが、脚本通りに話は流れていく。
脚本に任せなさい、脚本こそがあなただ。
どこの大学を出ていますか?
どうでもいいことだが、私は中卒だ、ゆえに多くの幻に苦労してきた。
生まれ出た家庭の環境というものに、青年の頃の私は不平不満を感じていた。
なぜ公平ではないのか、なぜ豊かな環境とそうでない環境があるのか。
自ら選んだのならいいだろう、だが生まれ持った環境はどうすることもできない。
私は、私なりに思える、最大の地獄というものを、3度ほど経験している。
事業の失敗、末期寸前の病、人間不和などだ。
どれも命を絶とうという流れに導いた、単なる出来事だった。
完全に諦めたとき、心から完全にすべてを受け入れたとき、つまり、アイデンティティーを完璧に捨て去ったとき、私は「生きている」ということを実感した、初めての経験だったのだ。
歩けば道があり、風を感じ、匂いや温度がある。
人がそばを通り過ぎる、蝶が羽ばたいている。
テーブルの上に静かに茶碗が佇んでいる。
道路脇の縁石は、ただ存在している。
時間もなく、ただ感じている。
すべてが「存在」しており、光に溢れている。
私は今日も「生」を感じながら歩いたのだ。
今も「今」を感じている。
多くの資産を築き、多くの趣味や、スキルも最高レベルに達し、多くの人との出会いに恵まれ、想像できるすべての快楽を経験してきたが、どれも、ただ過ぎ去るものだ。
だが、「今」は永遠である。
蝶は地上で10日ほどしか生きられないが、「今」を感じている彼らには永遠の命である。
マネーゲームからの脱出本では、これは幻想だ、本来の自分が作ったでっち上げだ、と認識するようにと書かれているが、その先に観るものは、そのでっち上げが、「すべて」であったということだ。
つまり、あなたが見るもの、感じるもののすべてが、あなたの人生であり、あなただ。
受け入れなさい、というのは、そういうことを理解するために教えられたものである。
あなたは、今のままで良いではないか。
今を変えようとして苦しむのも、それは喜びである。
結局すべては喜びなのだ、なぜならあなたの人生で起こった出来事だからだ。
◆◆「ザ・マネーゲーム」から脱出する法13◆◆
916 :自分 ◆3wwHKM8d6k :2013/07/20(土) NY:AN:NY.AN ID:59VoqWjH