【方法論】「残りの人生はボーナスゲーム」今死んだことにして、残りの人生はボーナスゲームにしよう。今生まれ変わってみよう。ボーナスゲームを精一杯生きてみないか?byクレさん

達人part
質問さん
質問さん

煙草の煙に悩まされております。
狭い事務所内、ヘビースモーカーな社長の隣に自分の席があります。
考えないようにしているのですが、この環境から脱する良い方法はないでしょうか。

達人さん
達人さん

以前騒音に悩まされたんだけど、その時、なんとか騒音を消そうと、あれやこれや、メソッドをやってみた。
しかし、騒音は消えなかった、むしろ、激しくなった。

そこで、逆に受け入れることにした。
もう騒音は仕方ない、どうこうするのはやめよう。

すると、騒音はパッタリとなくなった。
でも実は、騒音の原因がなくなったわけじゃないみたいなんだ。
意識して耳を傾けると、また聴くことができる。
しかし、意識しないと、完全に聞こえなくて、存在すら感知できない。

煙草ではないけど、煙草でも同じことは起きうると思います。
最初は我慢がいるかもしれないけど、我慢してるのは今も一緒でしょう。可能なら、分煙を願い出てもいいかもね。

質問さん
質問さん

死にたくても、死んだらいけない、
なんの為に生きてんのかな。

達人さん
達人さん

何のために死にたいのですか?

質問さん
質問さん

苦しみから解放されたい

達人さん
達人さん

気持ちはわかる。
私も何回か思ったことあるし、今も「最悪の場合、死ねばいい」と思ってる。
私のいる世界では、命もその人の自由に処分できる対象と考える人もいる。
だから、死んでもいいと思う。

しかし、そんな私でも、思い詰めて死を選ぼうとしたことはない。
なぜなら、死を選ぶことは、とても非合理で、メリットが薄い気がしたから。

人はいつか死ぬ。
いつか死ぬなら、今死んでも一緒に見えるが、実はそうでもない。
今自ら死ぬと、死ななければ得られたであろう、生きている間の幸せや喜びが、確実に減る。
最終的に死ぬなら、今生きたら得られる幸せは多くなる。
たとえどんなに絶望的な状況であっても、結論は変わらない。

したがって、私は死を選ばなかった。
苦しみから逃れるために死を選ぶことが、果たして自分にとって、
合理的なのかどうかという観点から、少し疑ってみても悪くはないでしょう?
死ぬ前にそれくらい考えたっていいでしょう。

質問さん
質問さん

どうしても非合理とは思えない
生きるのって、苦痛を回避したいという欲求に追われてるとしか思えない
こんな所にいつまでも居たって消耗するだけ

クレさんだって、108さんだって、捻くれさんだって、始めから悟ってたわけじゃないでしょ、始めは苦痛があって、回避したくて悩んでここに辿り着いたんでしょ?

達人さん
達人さん

確かに私は、絶望の中でチケットを手にした。
溺れる者は藁をも掴むって言うけど、絶望の淵にいると、現実は内面の投影とか、願望は叶うためにある、なんて言われたら、胡散臭くても、それに縋りたくなる。
しかし、胡散臭さは変わらない。故に信じられない。
不快は嘘とか、願望は叶うとか、別の領域とか、ピンと来ない。
既にあるなら、なぜ目の前に現れないのか。

だが、いつまでもそんな状態では仕方ない。
そこで、死ぬことにした。
正確には、死んだことにした。

今生まれてみればいいんじゃないか。
しかし、成長しているのに生まれるというのは、違和感がある。
ならば、今死んだことにして、残りの人生はボーナスゲームにしよう、
そうすれば同じことだ。

もう失うものは何一つないし、むしろ、今手元にあるものは全て、ボーナスゲームをするに当たってのボーナスだ、それで生きてみよう。
本当に生きているのが嫌になったら、勝手に死ぬだろう。
今生まれ変わってみよう、そう思って生きた。
一年間に限り、チケットを鵜呑みにすることにして、生きた。

さて、あなたは死にたいなら、私に命をよこすんだ。
どうせ死にたいんだろ、じゃあいいじゃん、捨てるものなら私にくれてもいいじゃん。
代わりに、あなたには人生のボーナスゲームをやろう。

本当に嫌になったら、あなたは自然に死ぬよ。
こんなところでイロイロ言わないでさ、自然に死ぬよ。

だから、ボーナスゲームを精一杯生きてみないか?
チケットを見てもいいし、忘れてもいいし、ボーナスの使い方は自分次第だよ。

質問さん
質問さん

クレさんに質問があります。
いろいろとメソッドをしたり、幸せになるために願望を実現させようとか、やるのがめんどくさくなって、今幸せになることを選択したんです。

○○が実現したから幸せだとかじゃなく、今ただ単純に、直結で幸せを味わうんです。
「自分がいま生きてる=幸せ」みたいな感じです。

具体的に何をやるかというと、幸せを感じている自分をイメージするだけなんだけどね。
すると、すぐに幸せな感覚がやってくる。
願望チックなことは一切考慮に入れない。

単純に幸せで、心がワクワクで、ふわーっとなってるところをイメージする。
「 ああ・幸せー」みたいな感じです、完全にアホです。
でも、ほんとに幸福感を感じることができるんです。これっていいですかね?

達人さん
達人さん

ダメって言われたらどうするんだ、私から言うことは何もないよ。

質問さん
質問さん

他人は変えられないって言われても、他人に認められたいし、他人の認定を変えたいな

達人さん
達人さん

他人は変えられないということについて、最近思うことがある。

現実は内面の投影なら、他人も投影であって、変えられるはずだ。
それを変えられないというのは、コントロールできないというのと、意味が等しいだろう。
他人への認定を変えるのに、その認定を、他人の態度や言動に依存させていては、変えられるわけがない。

したがって、他人はコントロールできないという意味において、他人は変えられない。
変えるのはまず自分自身の認定であって、自分自身の認定が変えられれば、他人は変えることができてしかるべきだ。

質問さん
質問さん

クレさんは、現実は内面の投影ということを、いつ、どのように信じることが出来ましたか?

達人さん
達人さん

信じてないよ、今も疑っている部分はある。
しかし、私はその考え方がとても好きだ。
自分の現実が自分で作られていなくて、勝手に作られるものだとしたら、自分にはどうしようもないだろう?

それを自分で作れるって言うんだぜ、こんな魅力的な考え方はないだろう。
そこでとりあえず、それに乗ってみたわけだ。
すると、なんかそうらしいことがたくさん起きるじゃないか。
これはなかなかだと思ってしまう。

たとえ、チケットが全部嘘だとしてもだ。
所詮、内面を変えるだけで、外部にさしたる影響はないだろう?
だったら、ノーリスクな考え方に乗ってみたくならないか?
私は現実が内面の投影でもなんでもいいよ。
ただ、その考え方が純粋に好きなんだ。

質問さん
質問さん

他人って何なんだろう、本当にいるのかな?

達人さん
達人さん

考え方次第だろう。
他人が投影だとしても、他人が一切存在しない内面はよくわからないし、他人は目の前にいる。
しかし、他人は投影であるという意味では、他人なんて存在しない。

いずれにせよ、まあ他人はいるという認識がある限り、他人は存在するんじゃないかなあ。
結局どうでもいいかな、という結論です。

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