煙草の煙に悩まされております。
狭い事務所内、ヘビースモーカーな社長の隣に自分の席があります。
考えないようにしているのですが、この環境から脱する良い方法はないでしょうか。
以前騒音に悩まされたんだけど、その時、なんとか騒音を消そうと、あれやこれや、メソッドをやってみた。
しかし、騒音は消えなかった、むしろ、激しくなった。
そこで、逆に受け入れることにした。
もう騒音は仕方ない、どうこうするのはやめよう。
すると、騒音はパッタリとなくなった。
でも実は、騒音の原因がなくなったわけじゃないみたいなんだ。
意識して耳を傾けると、また聴くことができる。
しかし、意識しないと、完全に聞こえなくて、存在すら感知できない。
煙草ではないけど、煙草でも同じことは起きうると思います。
最初は我慢がいるかもしれないけど、我慢してるのは今も一緒でしょう。可能なら、分煙を願い出てもいいかもね。
死にたくても、死んだらいけない、
なんの為に生きてんのかな。
何のために死にたいのですか?
苦しみから解放されたい
気持ちはわかる。
私も何回か思ったことあるし、今も「最悪の場合、死ねばいい」と思ってる。
私のいる世界では、命もその人の自由に処分できる対象と考える人もいる。
だから、死んでもいいと思う。
しかし、そんな私でも、思い詰めて死を選ぼうとしたことはない。
なぜなら、死を選ぶことは、とても非合理で、メリットが薄い気がしたから。
人はいつか死ぬ。
いつか死ぬなら、今死んでも一緒に見えるが、実はそうでもない。
今自ら死ぬと、死ななければ得られたであろう、生きている間の幸せや喜びが、確実に減る。
最終的に死ぬなら、今生きたら得られる幸せは多くなる。
たとえどんなに絶望的な状況であっても、結論は変わらない。
したがって、私は死を選ばなかった。
苦しみから逃れるために死を選ぶことが、果たして自分にとって、
合理的なのかどうかという観点から、少し疑ってみても悪くはないでしょう?
死ぬ前にそれくらい考えたっていいでしょう。
どうしても非合理とは思えない
生きるのって、苦痛を回避したいという欲求に追われてるとしか思えない
こんな所にいつまでも居たって消耗するだけ
クレさんだって、108さんだって、捻くれさんだって、始めから悟ってたわけじゃないでしょ、始めは苦痛があって、回避したくて悩んでここに辿り着いたんでしょ?
確かに私は、絶望の中でチケットを手にした。
溺れる者は藁をも掴むって言うけど、絶望の淵にいると、現実は内面の投影とか、願望は叶うためにある、なんて言われたら、胡散臭くても、それに縋りたくなる。
しかし、胡散臭さは変わらない。故に信じられない。
不快は嘘とか、願望は叶うとか、別の領域とか、ピンと来ない。
既にあるなら、なぜ目の前に現れないのか。
だが、いつまでもそんな状態では仕方ない。
そこで、死ぬことにした。
正確には、死んだことにした。
今生まれてみればいいんじゃないか。
しかし、成長しているのに生まれるというのは、違和感がある。
ならば、今死んだことにして、残りの人生はボーナスゲームにしよう、
そうすれば同じことだ。
もう失うものは何一つないし、むしろ、今手元にあるものは全て、ボーナスゲームをするに当たってのボーナスだ、それで生きてみよう。
本当に生きているのが嫌になったら、勝手に死ぬだろう。
今生まれ変わってみよう、そう思って生きた。
一年間に限り、チケットを鵜呑みにすることにして、生きた。
さて、あなたは死にたいなら、私に命をよこすんだ。
どうせ死にたいんだろ、じゃあいいじゃん、捨てるものなら私にくれてもいいじゃん。
代わりに、あなたには人生のボーナスゲームをやろう。
本当に嫌になったら、あなたは自然に死ぬよ。
こんなところでイロイロ言わないでさ、自然に死ぬよ。
だから、ボーナスゲームを精一杯生きてみないか?
チケットを見てもいいし、忘れてもいいし、ボーナスの使い方は自分次第だよ。
クレさんに質問があります。
いろいろとメソッドをしたり、幸せになるために願望を実現させようとか、やるのがめんどくさくなって、今幸せになることを選択したんです。
○○が実現したから幸せだとかじゃなく、今ただ単純に、直結で幸せを味わうんです。
「自分がいま生きてる=幸せ」みたいな感じです。
具体的に何をやるかというと、幸せを感じている自分をイメージするだけなんだけどね。
すると、すぐに幸せな感覚がやってくる。
願望チックなことは一切考慮に入れない。
単純に幸せで、心がワクワクで、ふわーっとなってるところをイメージする。
「 ああ・幸せー」みたいな感じです、完全にアホです。
でも、ほんとに幸福感を感じることができるんです。これっていいですかね?
ダメって言われたらどうするんだ、私から言うことは何もないよ。
他人は変えられないって言われても、他人に認められたいし、他人の認定を変えたいな
他人は変えられないということについて、最近思うことがある。
現実は内面の投影なら、他人も投影であって、変えられるはずだ。
それを変えられないというのは、コントロールできないというのと、意味が等しいだろう。
他人への認定を変えるのに、その認定を、他人の態度や言動に依存させていては、変えられるわけがない。
したがって、他人はコントロールできないという意味において、他人は変えられない。
変えるのはまず自分自身の認定であって、自分自身の認定が変えられれば、他人は変えることができてしかるべきだ。
クレさんは、現実は内面の投影ということを、いつ、どのように信じることが出来ましたか?
信じてないよ、今も疑っている部分はある。
しかし、私はその考え方がとても好きだ。
自分の現実が自分で作られていなくて、勝手に作られるものだとしたら、自分にはどうしようもないだろう?
それを自分で作れるって言うんだぜ、こんな魅力的な考え方はないだろう。
そこでとりあえず、それに乗ってみたわけだ。
すると、なんかそうらしいことがたくさん起きるじゃないか。
これはなかなかだと思ってしまう。
たとえ、チケットが全部嘘だとしてもだ。
所詮、内面を変えるだけで、外部にさしたる影響はないだろう?
だったら、ノーリスクな考え方に乗ってみたくならないか?
私は現実が内面の投影でもなんでもいいよ。
ただ、その考え方が純粋に好きなんだ。
他人って何なんだろう、本当にいるのかな?
考え方次第だろう。
他人が投影だとしても、他人が一切存在しない内面はよくわからないし、他人は目の前にいる。
しかし、他人は投影であるという意味では、他人なんて存在しない。
いずれにせよ、まあ他人はいるという認識がある限り、他人は存在するんじゃないかなあ。
結局どうでもいいかな、という結論です。