結局水が流れるように生きているとき、人は自由を感じるのだろう。
執着しないこと、目の前の状況や他人を自分の思い通りにどうにかしてやろうと思って躍起にならないことだ。
絶望に打ちひしがれることでそのことを悟る場合もある。
だから運命は変えられるとかコントロールできるとか言って夢に向かってがむしゃらに頑張るのも長い目で見れば悪いことではないのかもしれない。
昔の人はそういうのを若気の至りと言った。
HTMLの世界では#FF0000はweb上では赤として表示される。
それがどれだけ鮮やかな赤に見えても、どれだけ醜悪な赤に見えても、実際は単なる#FF0000があるだけである。
そしてどれだけ、#FF0000に議論や疑問を与えても、HTMLという枠組みを超えることはできない。
あなたの目の前の白い紙に#FF0000と書いてもそれは単なる#FF0000だ、赤ではない。
確かに超常的な現象はある。
結果的にシンクロニシティーと呼ばれるものもそうだ。
空気も、見ることも触れることもできないのにそれがあることをなぜか理解している、これほど不思議なものはないだろう。
しかし不思議ではないのだろう。
すべては我々の認識上で、不思議やら当然やらを決定しているが、禅問答のように、質問こそが答えであり、ただ質問が存在しているだけである。
だから答えはいかようにも答えられるし、答えはないともいえる。
つまりすべては、勝手な自己認識の上での話なのである。
HTMLで#FF0000を青にしようとする=現状をガラっと変えて幸福になりたい、とすれば、あなたの中で#FF0000を青とすれば良いだけなのだ。
いろいろ概念を変更していけば、いずれ#FF0000という単なる文字列があるだけだと気付くだろう。
つまり概念の先にあるそれに気付くのだ。
すると#FF0000があなたの世界で情報を持たなくなり、そしてHTMLが崩壊する。
HTMLの破壊であればいいけど、経済的壊滅、家庭崩壊し始めました
あなたがその状況に悲観しているのならば、#FF0000が赤であり、それを青にすれば、逆に感じるということだ。
つまり視点を変えれば、そしてそこから連鎖的に繋がる出来事から見れば、その出来事はプラスだったのかもしれないし、本当はプラスもマイナスもないことを知るんだ。
あなたという世界感では、経済的壊滅は、悲観と感じる、つまり、あなたというHTMLでは、#FF0000は赤でweb表示されるのだ。
しかし、それらは色などはなく、単なる#FF0000であることを悟るのだ。
HTMLという枠組みを超えればいいのですか
しかしそのHTMLすらも概念である。
個別のHTMLタグを発生させる空間であるが、HTML自体が、その上を見ればOSという空間の中の単なるプログラムである。
そしてOSの上にはまた何かがあり、その上にも何かがある。
しかしHTMLタグのレベルからでは、それらが何かを認識できない。
なぜならプログラムそのものが違うからだ。
CPU内部のアーキテクチャーにHTMLは存在できない。
このことから、最底辺レベルにあるのは、#FF0000を赤と表示する概念であり、通常その概念に満ちた世界に我々はいる。
部屋はそれ自体を指し示すことはできない、
壁や床、天井はあるが、それらは部屋を示しているのではなく、その部屋に、机やタンスが配置されることで部屋という空間が生まれるのだと、エックハルト、トールという人が言っている。
その空間が無であり、どんな音も、それが発生した時点で、裏側の沈黙が生まれる。
ここからは私の解釈だが、つまり無が最初にあるわけではないのだ。
さらに部屋という、形と同時に生まれた空間は、家という、さらに包括する空間の有であり、その視点からは無ではなくなる。
さらに、家は、町の視点からの有である。
つまりどこまで行っても完全な無など存在しないのだ。
だが無は無である。
表現は正しくないが、形と同時に無が生まれる、ということは形は無であるとも言える。
だから目の前のコップを消し去ることは可能である。
なぜならばそこにあるということは、そこにないを包括しているからである。
これが何を意味しているか、つまり、概念を消し去れば、それ自体は認識できなくなるのだ。
それを感じるだけである。
例えば登山道の足跡を見て、また整然と干された洗濯物を見て、人の心を感じないだろうか?
例えば何もない窓辺に、以前置いてあった花瓶を感じることができないだろうか?
無という空間にビッグバンが起こり、有が生まれたと誰もが考えてしまう。
つまり無という日常に出来事が起こり、生命が生まれ、景色が視界に入り、そしてそれらは再び無へ過ぎ去っていくと考える。
だが、何かがあるから、裏側にそれを支えるスペースがあるのだ、と解釈したときに、人生観がひっくり返るだろう。
もう一度書くが、あるは概念だ。
そして概念は、それ自体が存在するために、スペースを発生させる。
かるたや、トランプの場合、1枚1枚、絵柄などが書かれているが、それら絵柄の背景には、絵柄を描くための個別のスペースがある。
そしてそのトランプの束を置くテーブルがあり、さらにそのテーブルを置いている床がある。
トランプ側から見れば、テーブルが空間、つまり無であり、テーブルから見れば床が空間である。
これは何を意味しているかというと、無も概念である、ということである。
我々の概念世界で指し示される、大いなる意識や、本来の自分と言われる無は、概念なのである。
ただし、ここで大きな発見がある。
何かが配置されることで、そのスペースが同時に発生するのだ。
つまり、あなたという概念が世界に発生したから、あなたの今という空間が常に発生しているのだ。
しかし前述したように、今も概念である。
概念であるということは、#FF0000を青であると認識することができるのだ。
だから、あなたの世界はバラ色なのである、素晴らしいという意味でのバラ色なのである。
つまりあなたこそが無であり、実際は実在していないのだ。
だが無であるがゆえに、実在を感じるだろう。
なぜ感じるのか、自分ここにいるじゃん、となぜ思うのか、それは概念が作用しているからだ。
つまり概念を生み出す思考がなければ、あなたは実在を認識できない。
それは熟睡状態だ。
だが厳密にいうと熟睡状態は無ではない。
なぜならば思考による概念がないからである
では思考とはなにか。
思考が発生するためには、そのスペースが必要である。
つまり思考なり、すべての事象や物体、出来事は、無の上に成りたっている。
だが無というものは、単一では存在できない=存在を捉えることができない。
あえて語弊のある書き方をすれば、何かが発生したときに、それに対応した無が発生しているだけのことなのだ。
しかし、個別の無は、さらに大きな視野から見れば、無ではなくなる。
それは前述したように、テーブル、床、部屋、家、町という流れのように、無ではなくなる。
それ自体を包括する抽象レベルを認識した途端に、無の空間は、有限のものへと変容する。
我々の瞑想は、個別の無を、一段だけ大きな視点から観る、(感じる)ことで、無を有形化しているに過ぎない。
ただしそれがヒントとなるだろう。
概念こそが、すべてを変容させるマジックであり、誰もが、個々の描いた通りの世界を体感できるのだ。
それという、純粋無垢な何かは無い。
無という空間に有が生まれて、消えゆくわけではない。
概念を与えたときに、それを投影するスクリーンのような無が発生するのである。
つまりそれがあると思い込んでいるだけで、概念をはがしてみると、なんと何も無いのだ。
外を歩けば、アスファルトや、電柱、看板、通行人、自転車など、色々と遭遇するが、あなたはそれらを、概念を通して見ているのだ。
一般的なスピリチュアル論では、概念を通さずに『それ』を観れば、純粋無垢なそれを感じることができて、形あるものにしろ、出来事にしろ、単一のそれが生まれるのが無であるとされているが、私はそうは思わない。
そもそも単一のそれは、概念をはがしてみると、無いのだ。
なぜならば、概念とセットに無というスペースが発生するからであり、概念をはがせば無があるだけだ。
ただし、無という共有のスペースがあるのではなく、無は概念にくっついている。
「それを観れば概念が……」というのではなく、「観れば概念が……」なのであり、よって、あなた自体が無なのである。
◆◆「ザ・マネーゲーム」から脱出する法12◆◆
873 :名無しさん@お腹いっぱい。:2013/06/16(日) 16:18:36.88 ID:E+hVA5GJ