引き寄せの法則はあるのかな
あなたが引き寄せたと思えば、引き寄せ完了である。
これまでの人生を振り返ってみれば、完璧だったとわかるだろう
すべて、結果側から観なさい。
そうすれば原因を操作できる。
そして原因も結果もひとつであることが理解できて、あなたは時間や結果の法則から超越できる。
我々の外にあるモノが単なるラベルだと認識していくと、体も、内臓も、魂もラベルだと知り、自分は消えてしまうのでしょうか?
我々の外にあるラベルだと、我々は誤解しているが、外も内もなく、ただラベルが在る、それだけである。
中身はない。
すべては至ってシンプルだ。
すべての物事は箱だと思えばいい、中身はカラだ。
そこにケーキが入ってるのかな、オモチャかな、生首かなと、人それぞれポジティブからネガティブまで概念をくっつけるわけだ。
でも中身はカラだ。
箱ということは空間である。
その空間に概念を生み出している。
だがその箱も、テーブルに置いてあれば概念そのものになる。
つまりすべて箱のようなものと思えばいい。
あなたが勝手に箱の中身を妄想して、喜んだり恐れたりしているだけだ。
そして瞑想すれば、喜びや恐れもなく、純粋に箱の中身を感じられると勘違いするが、実際には、テーブルから観た箱を知るだけである。
つまりすべては無である。
どこまでいっても何もない。
一つ上の抽象レベルから観れば、無も概念である。
概念ということは思考の対象である。
つまり、我々が語りあっているこのすべてはただそれだけのことである。
そして我々が生きていく世界、人生、スピリチュアル、きょうの昼ごはん、知り合いのトラブル、今月の支払い、損した買い物、行楽地での大雨、傘の置き忘れ、電車で気になる異性、将来の不安、明日の楽しい予定、それらは、あなたの人生に在る。
だが、あなたの予測しない出現方法で登場し、予測できない動きを見せる。
すべてはそういうものなのである。
結果から物事を観れば、それまでいかにすべてが完璧だったかがわかる。
だから、いま現在のあなたの置かれている状況も完璧な進行なのだ。
人生の本番がいつ始まるんだろう、と待ち続けている男がいた。
何が始まってもいいように、精神面も、あらゆるスキルも、徹底した準備をしていた。
そして彼が最期に悟ったのは、そうか、いつ始まるんだろうと待ち続けていたことが、私の本番だったのだ、ということだ。
例えばここに、無数の石コロがあったとして、一つひとつを区別する必要があるので、普通の石、エメラルドの原石、ルビーの原石、ヒスイの原石、と名前、(ラベル)を付けて、一つひとつ認識していきます。
この石が目に映っても、まったく何の関心も無ければ、それはムとして認識するのかな
例えば、あなたも、すべての生物も、公園の砂も、ガラスのコップも、プラスティックのおもちゃも、全部地球の派生物である。
派生物としたのは、分離である。
つまりは、地球である。
あなたの髪の毛や細胞、爪切りで落とした爪、耳あか、それらもすべてあなたの構成部品だった、つまりあなただ。
あなたは地球であり、地球は宇宙の内包物である。
そのように考えれば、ワンネスは理解しやすい。
言葉はあえて区分するためのもの、つまり分離である。
キリストも仏陀も、コケも、あなたも、全部、単なる地球、宇宙から湧いて出た物質である。
ちなみに、音も光も、単なる波形であり、それらも同様に湧いて出た物質である。
逆にミクロ視点で進めていけば、あなたは60兆の細胞から成り立っており、それら細胞も、分子やら粒子やら、細かく刻んでいけばキリがない。
ダグラス、ハーディングという人は、自分を距離を置いた視点で観れば、
宇宙の一部分であり、距離を縮めた視点で観れば、原子である、つまり適度な距離感こそが、我々の世界の大前提である、と述べている。
じゃあ適度な距離感ってなんだ?
あなたを観るとき、もしかすると誰かは、あなたのことを細胞に見えてる人もいるかもしれない。
逆に、非常に大きな距離感で捉える人から観れば、あなたのことを自分を含めた宇宙として見えているかもしれない。
そしてそれらすべては無というバックボーンに成り立っており、行き着く先には、なにもない。
無とは有のことである。
概念であり、思考であり、エゴのことである。
無を無として指し示すことはできないが、その正体はすべてのものである。
あなたは常にゴールにいる。
それはそれまでの人生が、あなたが今そこでそうしているために、完璧に調和された出来事の集大成なのだ。
そのように観れば、無が一段上の視野から観れば、無と成り得ないことが容易に理解できる。
つまり、すべてはその通り、ただあるがまま、なのだ。
うまく生きていくコツなんてものはない。
あなたの人生で起こるすべての出来事は、完璧なのだ。
だから苦しむ必要もないし、未来に期待や不安を持つ必要も無い。
これを言葉という表現で置き換えるならば、無限と呼べるのだろう。
ただ単に、あなたはあなたの人生を生きているだけなのだ。
だが、あなたはあなたの人生の本質をコントロールできない。
つまり、受け身でしかないのだ。
なぜならば、すべてが記憶というフィルターを通じてあなたは認識するからである。
最初に戻るが、結果という視点から観れば、すべては完璧なのだ。
だから恐れる必要は無い。
ただ発生した出来事を楽しめばいい。
ものすごく納得はしてるし、反論もないけど、最終的にどこを目指してるの?
最終的にどこを目指してるのって、それはなんだ?
私はすでに、いまここにいる。
あなたも、そこにいるのではないか?
そういう問いがでているということは、あなたは、人生をコントロールしようとしているから苦しいのだ。
人生とは、そんな小さなものではない。
ただ流れの中、すなわち流れがあるのだ。
流れこそが己であり、単に流れているだけである。
あなたは今、何かしらの風景が視界に飛び込んでいるだろう、何かしらの音が聞こえているだろう。
それらは、発生した根源を、あなたの五感が処理して、初めて認識している。
つまり、すべての出来事は受け身でしかない。
では誰がそれを発生してるのかというと、流れだ。
つまり、その発生する根源で、あなたは作られている。
あなたの性格も人格も、趣味も、好みも、それまで生きてきたあなたの周りを蠢いてきた根源により、それを受け身として認識してきたからこそ、あなたという概念がそこにある。
つまりあなたは、あなた以外のそれらである。
これから起こる出来事も、なにもかも、あなたはただ傍観するしかない。
それは、あなた自身を体験していることに、ほかならない。
ICUに入るくらいの肉体の痛みを静観する余裕なんてないし、最終的に目指すところって痛みを感じない領域なのか
あなたのいう余裕や、目指すとはなにか?
それもあなたの過去や、人生の知識などから知ったものだろう。
もしかすると、あなたは自分の意思で生きていると錯覚しているのではないか?
私はあなたの言っている意味がいまいち理解できない。
あなたがいまここに書き込んでいるのは、スピリチュアルなどに出会う切っ掛けがあったからで、スピリチュアルもマネーゲーム本もなければ、あなたはここで私と話をしていない。
あなたの行動は、それらきっかけが発生したことによる、結果でしかないのだ。
では、きっかけをあなたが生んだのか?
私がいつも言っている統合的な意味では、あなた以外のすべてであるあなたが生んだのだが、あなたの言う自覚は、それがなんなのか、証明できないはずだ。
ICUに入ることになったいきさつは、そういう出来事があったからだ。
そういう出来事がなければICUとは無縁である。
つまりICUに縁があったということは、そういう出来事や、ICUがあなた自身である。
あなたとは、それら根源が生み出す、単なる影でしかない。
ICUに入らない健康な体が欲しいという欲求があるからで、高熱や痛みがある状態の時も達観できるくらいの覚者を目指さない限り、世界が自分と気付く事って、なにか意味があるのかな
あなたが話す欲求や目指すとはなにか?
単に朝が来るから、あなたは朝を感じているだけだ。
つまり、あなたは朝である。
念のため付け加えておくが、
朝も、スピリチュアルも、時計も、服も、食べ物も、味も、感情も、すべては概念である。
つまりそれらは、実在していない。
ただあなたが、それをそう感じているから体験しているのだ。
そしてあなたも、単なる概念である。
そして日々起こる出来事も概念である。
この世界はすべて概念で構成されている。
だから幻や空と言われている。
中身はどれだけ探しても見つからないからね。
だから、あなたが日頃感じている、どうすれば100%受け入れられるのか、どうすれば痛みを感じない領域か、に付随する、
様々な疑問は、あなたが目指したその先には無いと断言できる。
なぜならすべては、空っぽだからだ。
それをそのように観ているだけだ。
思い込むとか、目指す、とかを忘れてしまってはどうか。
つまり、精神世界を意識しない暮らしを送ってはどうか。
たぶんあなたの求めているものは、ここにもなければ、どこにもない。
ただ、あなたの人生、それがあるだけだ。
◆◆「ザ・マネーゲーム」から脱出する法12◆◆
920 :名無しさん@お腹いっぱい。:2013/06/18(火) 00:59:10.66 ID:CL8fXihb