エゴと同一化するのをやめられない時は、あきらめて自愛に切り替えてるけど、癒されたり心が軽くなる感じがないです。
進歩してる感じがない、このエゴエゴループが辛いです。
自己観察は、どんな思考も見ているだけでスルーすること。
自愛は否定感に対して抵抗するのではなく、許して認めてスルーすること。
エゴを何とかしようと「コントロール」しようとするのではなく、どちらもスルーすることだ。
スルーと言っても放っておくのとは違う、逃げるのとも違う。
エゴに気づき、対象化して距離を置く、という感じかな。
「距離を置く」というのも、少し能動的であり、「距離を置けないよ」となりがちかもしれない。
慣れないと難しい所もある。
だからね、自然とスルーと言うか、そのままでエゴから抜けるのに一番良いのは瞑想なんだ。
あれこれ考えてエゴと同一化してしまう、とか良く言うけどさ、正しくは、意識があちこち向かい過ぎ、というのが本当のところだ。
意識が何かの対象に焦点が当たると、反応として記憶の引き出しから思考が起こる。これを絶えずやってるんだ。
例えば、嫌なものを見たり聞いたりして気分が落ちるのも、嫌な記憶のあるものに意識が当たったから、反応的に嫌な気分が起こってしまうのよ。
この連鎖がエゴなんだ。人はこれを絶えずやってる、だからその連鎖をやめれば良いだけだ。
それが瞑想なんだよね。
意識を、一点に集中しとくのよ。
あちこち意識が飛んでも、また一点に集中する。
例えば自分のハートだったり、自分の中心だったり、何でもいい。
そうやっているとね、普段生活してても、余計な思考に意識が当たらなくなるんだ。
武士みたいに、常に平常心で、精神が統一されて、研ぎ澄まされた感覚となる。
それは別の領域に在るんだけど、「ほわーん、幸せ」というような感じの、ネガから極端に離れたポジでもない。
ほわーんというのも、実はエゴだからね。
瞑想をやってみると良いよ。
もちろん、合う合わないもあるから、いろいろやってみると良いよ。
通常起きている時に人は「意識があちこち飛んでる」って書いたけど、
例えば、「意識がリンゴを発見した」という場合、リンゴを見た時、その瞬間には、世界にはリンゴしかないんだ。
「私がリンゴを見てるんだから、リンゴと私の二者があるのは当たり前だし、それ以外にも世界にはいろいろ存在してるでしょ」って思うかもしれないし、それが普通だよね。
でも、本当にそうなのかな?
「私がリンゴを見た」というのを細かく観察した時、リンゴ、→私、→私がリンゴを見た、→だからこの世界には私とそれ以外がある、という順番で、意識が当たっているだけなんだ。
「意識が当たっている」というのも方便で、実際には、意識がリンゴになり、意識が私になり、意識が、「私がりんごを見た」の思考になる、っていう感じに、順番に変化している。
つまり、この意識が世界を作っているっていうのがわかるんだよね。
私=世界というのが、体感としてわかる。
瞑想で余計な思考を静めて、自己をよく観察するとそれがわかってくる。
そうすると「私は世界じゃん」ということを、エゴが認識するわけだ。
エゴの認識が変わる。
今までのちっぽけな1人の人間というエゴの自分認識から、世界の出来事すべてを意識で作っていたという「神」「創造主」としての認識にエゴが変わる。
そうなるといろいろ起こってくるんだよね。
認識の変更のみを目指すスレ4
https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read_archive.cgi/study/9650/1481802950/l50
980 : 幸せな名無しさん :2018/01/22(月) 23:44:41 eaw./cU.0