いろいろ実践してみて、急に思ったんだけど、今にいるっていうのは、目の前の現象に集中することじゃないよね。
方法はそうかもしれないけど、自分でいることというか、自分がありたいようにいることかなと思った。
「今」の解釈が、ひとそれぞれでごっちゃになってるけど、なりたいというか、ありたい自分がどういうものかを選ぶときに、過去や未来からくる不安や心配が前提の自分じゃなくて、ただ単に、「こうである自分」というのを決めて、その通りであることが、今にいることなのかなと思った。
自分は波動とか点とか静寂とかもよくわからなかったけど、結局いろんな人が言っている事と同じだ。
それはどちらかというと、メソッドとしては「なる」に近いかもしれませんね。
過去や未来からくる不安や心配が前提の自分じゃなくて、何の前提もない、ありたい自分のところが、今だなと思ったんだよね。
過去も未来も関係ない、不安も関係ない、ただ「今ここにある自分」、みたいな感じです。
「なる」も、今の自分の在りようだと思うから、同じところに行き着くんじゃないかな。
自愛も、そうであっても、そうでなくてもいい自分を受け入れていく、という意味では同じかもね。
「ありたい自分」をイメージすればいいのでしょうか。
選ぶとか決めるとか書いたから、決定するための宣言をするみたいに捉えられたかもしれないけど、そういうことじゃなくて、不安なことが浮かんでくるときは、過去か未来を想像してるときだから、過去や思考を基準にしなくていいんだから、あってもなくても関係ないし、幸せって決めたからもうそれでいいんだ、と知ることというか、思うような感じかな。
あるいは、「未来は決まってなかったわー、今幸せなんだったわー」、と思い出すという感じかな。
イメージはしてもいいし、しなくてもいいんじゃないかな。
目の前にある自分の創造物は、そもそも何とも繋がってなくて、何かを前提としたものではないのだね。
結びつけてたのは、結局自分だ。
それがわかるようになると、苦しみから開放されて涅槃にいけるのですか?
不安は嘘だとわかったから、不安に怯えなくなった、苦しくなくなった。
淡々と流れていくのを見ているだけなのがわかった。
何故再配達が起こるかわかった。
涅槃はまさに今ここだ。
よくいわれている「自分イコール世界」の、「世界」の定義が違うのかと思ったよ。
世界とは、便宜上定義している、自分の内と自分の外も全部ひっくるめた、仕切りのない全部なんだと思う。
言葉での説明上、内と外、内側が外側に反映、なんていう表現をしてるだけかもね。
だっておかしいよね、過去も未来も、「今」無いのに、確かに「ある」と認定してるのはなんですか、ってことだよね。
現実を見て、手に触れられないから、目に見えないから、「無い」と判断してるのに、見えない、触れられない、過去の経験や、未来を、「ある」と判断してるのはなぜですか、って思うよね。
内、外、過去、未来、それらを区別しているのは誰ですか、ということだよね。
これが理解できたら、いや、理解できなくても、今しかないのは当然で、自分にしか決められないことも当たり前のようになっちゃうんだな。
今今メソッドをしてたら人生変わってた2
https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/9650/1376871028/
200: 幸せな名無しさん :2013/10/24(木) 13:46:06 ID:VGzJnaII0