【方法論】「本当の自分の立場に気づく」自己観察をしていたら「本当の自分」の立場みたいなものに気づきました。今まで「ずーっと」そこにいたのに忘れてました。そんなに難しくないし、わりと楽しいプロセスです。

体感・気づき・方法論
達人さん
達人さん

エゴの思考・感情も、本当の自分が作った投影・シナリオの一部ってことなんですよね。
その思考・感情が湧き上がるには、目の前の現象や願望が存在することが、最も自然で、ちゃんとセットになってるから、「全部完璧」って達人さんたちは言うんですね。

でも、本当の自分は、エゴの思考・感情に縛られずに、意図して選ぶことができる」ということです。
結果的に、エゴの受け取るものが、思考・感情も含めて、変わってくるというのは、視点を変えてみれば当たり前過ぎますね。
そんな当たり前のことが、エゴと視点を重ねてると分からなくなっちゃうんですね。

「無」とかの感覚は、結局、ある意味バカみたくなって、まるっと「認める・採用する」ってやるしかないのかもしれませんね。
「採用してはじめて」体験・実感ができるし、それで納得がいくものなので、『納得させてくれなきゃ認めません・採用しません』っていうのは、順序が逆なんですよ」ってことなのかもしれませんね。

僕は、思考で納得できるところまでいこうとして、「思考には何の力もない・無意味」という結論まできてしまったから、もうお手上げです。
あとは、気休め程度に瞑想でもしながら、気付きの時を待つくらいしかできないですね。

達人さん
達人さん

その後、「チケット7章の認識」を認めて、採用してみました。
isaさんみたいに言えば、「全部分かった」、「全部手に入った」というのを、ただ採用しました。
たまにエゴが、「物質化してねーじゃん」、「体験・実感できてねーじゃん」とか騒ぐんだけど、自愛や自己観察とかで、適当に相手してやってます。
それでも採用してるだけで気分がよいので、特にすることもない、というのが僕の実践です。
瞑想も、単に気持ちいいからしてるだけです。

プチ成功報告ですが、今日、ミニスイッチを使った電子回路を考えてたんだけど、なかなか答えに達しないので、「既に答えが分かった」を採用したら、すぐに「ある配線」が思い浮かんできました。

やっぱり、思考やアイデアも、「自分が考えている」という錯覚があるだけで、別の領域からもたらされる現象の一部でしかないのかな」と気づきました。

さらに報告ですが、夕ご飯を食べて、お腹いっぱいでゴロゴロしながら、習慣になってる自己観察をしていたら「本当の自分」の立場みたいなものに気づきました。
今までずーっとそこにいたのに忘れてました。
思い出した瞬間は、コーヒーを吹くような感覚でしたよ。

「内側」の思考・感情も、「外側」の現象世界についての知覚情報も、全部同じように、淡々と観察して・受け止めている自分がいるだけでした。

Be動詞の自己観察状態には、誰でも、いつでもなれています。
そのことをわざと、「Do動詞」的に「自己観察する」ことで、思い出せるようにするだけだったんですね。

各種メソッドも「煩悩滅却」も、変性意識も、直接は関係ないです。
それが役に立つこともあると思いますし、シックリくるものなら、どれでもオッケーなんでしょう。
人によっては「私はエゴまみれだからクレンジングが必要なんです」という自己設定があるかもしれませんが、そのままの自分を観察してみてください。

自己観察のキモは、観察対象の思考・感情じゃなくて、観察してる主体、その立場に気づくこと」だと、自己観察さんが何回も書かれてることですが、スルーされがちなんですよね。
メソッド・Do動詞としての自己観察は、究極にシンプルで色が付いてないから、エゴにとっては捉えにくくて、難しかったり、疲れたりする人もいるんだと思います。
そんなときは、「難しいな」と考えている自分を観察しましょう。

「今なっていること・できていること」を自覚する、確認する、思い出す」というだけですね。

今回僕は、「快も、不快も、善も悪もなく、ただ淡々と観察してる自分」に気づけただけなので、まだこの先に、広がりとか深まりはあるんでしょう。
この立場から観察していることを自覚していれば、さらなる実感が自然ともたらされるんだと思います。
そんなに難しくないし、わりと楽しいプロセスです。

質問さん
質問さん

自分は、観察しようとすると、追いかけっこしちゃうんだよね。
自分を観察すると「観察する自分」が存在している感じがして、エンドレスになってしまいます。

達人さん
達人さん

そのループは、「自己観察で「今、自分は○○と考えてるなー』と気づいてることだって、エゴ的思考、エゴ的行為なんじゃないか」っていう疑問から起きてるんだと思います。

メソッド・Do動詞的な自己観察は「エゴでもできる自己観察」なので、観察自体がエゴ的思考とかになっちゃってもいいと思いますよ。
「○○と考えてるなー」っていうのは、言葉にしてる時点で、どうしたって思考が介在してますもんね。
でも、そこをあえて、わざとらしくやる感じです。
それだけで、同化していた思考などからは離れられるからです。

Do動詞的なままの自己観察を続けると、おっしゃるとおり、ループしますね。
僕もその無限ループがきつくて、ほとほと困った時期がありました。
メソッドとしてひたすら取り組むべきことだと勘違いしてたんですね。

そうではなくて、ある思考に気づいて観察できたところで、いったんおしまいです。
その瞬間が、思い出すべき「自己観察状態」そのものなんです。

でも、「その状態を維持するんだ」と思うと、時間にからめられて、エゴ的な「Do動詞」になっちゃいます。
だから、一回自己観察できたな」と思ったら、普段どおりの思考・感情に戻るつもりでかまいませんよ。
また次の思考とかに「フッ」と気づく、そういう瞬間・瞬間を繰り返す感じです

そう言うと「そんなのキリがないじゃん」って思う人もいるかもしれませんが、実際キリがありません。
なぜなら、人生のどの瞬間を取り出してみても、誰もが自己観察者なんですよ、そういう存在状態なんです。
そこでドシッと構えて「思考をシラミつぶしに観察してやるぞ」とか力んじゃうと、キリがなくて疲れ果てます。
もっと楽に「できるだけ気づけるように、でも忘れちゃっても、ま・いっか」くらいで生活しててください。
そのうちに元々の立場・視点がわかってきますよ。
今も現にそこにいるわけですからね。

108式実践・成功体験談スレ【1】
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/10211/1300703412/
947 名前:もぎりの名無しさん 投稿日:2011/06/01(水) 20:57:18 ID:YhofQGBE0

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