「本当の私は意識である」ということが真実なら、どうして、眠っている時には意識が無くなってしまうんでしょうか
寝ると意識が消えるなら、やっぱり肉体が自分なんじゃないか」と思ってしまいます。
そんなものに全てを委ねてしまっていいのかと、不安になっています。
本当の私は、絵に例えれば「背景」みたいなものらしいのですが、その背景が本当の私で、不滅の意識が自分だと分かれば、怖いものは無くなると思うんですが、意識について知りたいです。
「意識が信用できない」ということですが、これは信用できるとか、できないとか、信用する必要があるとか、そういうことではなく、単に「焦点の問題だと思います。
その「大いなる意識」は、眠ってるときも、死んでからも「消えることはありません。
それは、生死や「時空、個人を超えて存在する「根源」なのです。
眠っているときになくなるのは、「ある」、「ない」を認識している、個人の意識のほうです。
「個人の意識」というのは、「私は○○という人間だ」とか、「こういう容姿で、こういう性格で、こういう症状を抱えている」などと、普段改めて考えることはないでしょうが、それらのことを認識してる意識のことです。
このエゴの世界で生きるということは、時間や肉体という制限に「支配されているので、「私」という制限された個人意識は肉体とともに眠ってしまいます。
そうなると、大いなる意識が存在することを「認識することができませんよね。
「背景としての意識」というのは、もっと根源的な意識のことです。
絵画という比喩を使って説明すると、あなたは今まで、「絵の対象物」が「自分」でした。
そこに気に入らない絵が描かれていることを嘆いたり、どうにか書き換えようと頑張ってきたと思います。
でも、一部を書き換えようとしても、ほかとのバランスが取れなかったり、余計に酷くなったりして、うまいこと書き換えることは、なかなか難しかったと思います。
それは、あなたが絵の対象物になりきっていて、全体の構図を見ることができない位置にしかいなかったせいです。
そして、あなたはふと、後ろのほうに背景らしきものを見つけました。
対象物にとって背景とは何でしょう。
すべてを支えてくれる土台、それが「在る」からこそ、絵として存在することができます。
そもそも、背景となるものが存在しなければ、私だと思っていたものも、世界もすべて、存在することはできません。
この背景が、原初の「在る」です。
自分自身だと思っていた、絵の具で描かれた色彩を消し去ってしまえば、そこは何も描かれていない、まっさらな状態になります。
これが「空」であり、「無」であり、「ゼロポイント」であり、そして、「私は在る」です。
背景のみのキャンバス、「何も無い状態」が在る、「それが自分であった」、という気づきです。
「無」でありながら、「すべてがある」という、矛盾が同時に存在する「根源です。
絶対的に「在る」うえで、「無」である。
「在る」が在るから、すべての可能性が存在できる。
絶対的な「無い」というのは、存在できないのです。
根源からの視点で見ると、自分が存在することにさえ「気づいていなかった意識が、突然、「あ、自分在るじゃん」と気づけた、原初の気づきです。
その意識が「自分が在るじゃん」と自覚したからこそ、「そこから思いを発して、現象化する」という、「現実を創造する」という感覚が生じたのです。
すべてはそこから起きています。
自分が無、ゼロだと悟ると、そこに何が描かれようが自由でいられます。
不安や苦しみが描かれていても、あなた自身は、その描かれた絵ではなく、背景そのものですから、対象物から離れて「在る」意識の、「背景」であれば、そこは「すべてがある」場所ですから、そこに調和して「在る」ことで、調和した現象がおのずと生じます。
描かれている対象物は毎瞬変わっていきます。
楽しいときもあれば不愉快なときもある。
そのすべてを受け入れる場所に在るからこそ、その対象物を変えられる力があるのです。
「私は在る」という存在感覚を「深く感じて、実感を伴う理解として腑に落として、これが本当の自分だという根本的な気づきが、いわゆる「悟り」です。
悟りは何段階も無限にあって、私自身、その途中にすぎません。
あなたが「今この瞬間に「在る」に留まるのであれば、時空を越えて、その根源の「在る」にいることになります。
「在る」という自覚、存在感覚、「その存在に気づいていること、覚醒している状態」、「自分に気づき続けること」、それが「在る」ということです。
今までは、この状態を「自己観察状態」と表現してたけど、自己観察という表現は、どうしても「Do動詞的」なので、「ただ在るだけ」の状態でいながら、「目覚めてる状態」の「Being」です。
この世界はエゴの世界ともいえるので、苦しみや不安が存在します。
エゴの世界が幻想だというのは、変わっていくもの、不確かなもの、という意味での「幻想」です。
起きている現象を「問題だ」としているのは「エゴ」です。
なので、不安や苦しみをつかんでいるエゴから解放されて自由になれば、問題は起きなくなってきます。
そのエゴを超えて、現象が起こる源である本来の自分の、「在る」に焦点を当て続けることで、確かな真実である喜びや愛、調和が実現されてきます。
開放されるには、「在る」にあることです。
「在る」という気づきだけが、時間を越えて実在するものだからです。
エゴが繰り返し起きるのは苦しいかもしれませんが、そこに気づき続けることで「在る」がより確かなものになっていきます。
それは別に、劇的な感じてもなくて、誰にでもある、前から知ってる感覚です。
修行してるお坊さんとかは、「探してるから気づけないんじゃないか」と思います。
「そこに在ればよかったんだ」と気づくことだったんですよね。
私たちはあまりにも普通に存在しているので、その根源的な「在る」を「捕らえることが難しいのです。
簡単なものほど難しい、というやつですね。
でも、だからこそ、存在の源泉である「在る」という気づきを深めることが、何物にも変えがたく、これを経験したくて、この体験の世界が存在している」といえるくらいの大きなものだとも言えると思います。
その「在る」にフォーカスすることで、今まで気づけなかった根源的な喜びを知ることができるし、根源の無限さ、愛、そういったものが、「本当の自分だった」と悟ることができます。
あなたが気づいた「不動の意識」は、まだ「確かなもの」として、みることはできないと思いますが、体感を重ねながら、実感として理解することが大切です。
「在る」ことで、だんだんクリアになってくれば、今まで自分だと思ってきたもの、苦しいと思っていたものは、エゴの観念だったということがわかってきます。
そして「ある」に強力にフォーカスしてると、現象なんてものは結構あいまいというか、不確かなものとして感じられるし、「幻想とはこういうことか」と感じるようなことも起きやすくなります。
そういうふうに聞くと、期待するエゴもいると思いますが、それも「在る」にフォーカスすることで、超えてください。
エゴの側から「それがあるな」と感じるのではなくて、その不動の意識そのもので在ってください。
そこが、すべての創造の源です。
時空を超えた根源、すべてを生み出す源泉であり、「在る」ことで、そこから起こる現象がうまくいきます。
今度から、誰かに質問したくなったり、愚痴を言いたくなったときに、そうする前に「在る」に意識を向けてみてください。
質問することがいけないわけではないですけど、そうするよりも、「在る」に意識を向けるほうが確実だと思いますよ。
あと、行動については、ただそこに在れば、必要なことが起きてくるので、抵抗しなければいいだけです。
意図と実現はひとつです。
「すべては一つ、すべてが自分」という領域ですから。
ただ時間の中では、意図してから実現される、という流れがあるように見えるだけです。
その流れに逆らわなければ、行動を含めて、すべてが自然に起きてきます。
108以外質疑応答【5】
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/10211/1311180098/
128 名前:もぎりの名無しさん 投稿日:2011/07/31(日) 14:49:38 ID:psg5Ebes0