充足を見ろと、108さんはよく言っていたと思うんですが、本当に単純に、シンプルに、自分は充足を見よう、と決めるだけで良かったという事ですか?
108さんは、充足を、不足の対義語として使ってるね。
すなわち、あなたを満足させるもの、自由を感じさせるもの、愛を感じさせるもの、それらすべてを一括りにして、充足という単語で表しているんだよ。
充足を見るとは、充足に意識を注ぐ、充足に興味を持つ、という事だ。
不足、持っていないもの、足りないもの、ない、というところに、今まで興味を注ぎ続けていたところを、持っているもの、足りているもの、目の前にあるもの、ある、というところに意識を持っていくということだ。
無理やり満足する必要はないんだ。
あなたにとって、それはちっぽけな充足かもしれない。
でも、そこに意識を持っていく。
スタートが肝心なんだよ。車も走り出す時が一番力が必要だ。
スピードに乗ってしまえば、あとはそんなにチカラは要らないよね?
充足を見よう、と心の中で言葉を発したところで、充足をみようと意図したことにはならない。
充足を見ようと意図するというのは、意識的に、気づくたびに、意識的に、充足に意識を注ぐという事だ。
あなたは無意識に過ごすなら、習慣でいつものように不足を見るだろう。
だからこそ、意識的に充足に興味を持つこと、それが充足をみようと意図する、という事だ。
最初は少し面倒くさいと感じるかもしれない。
でも、単なる習慣の問題だ。
慣れれば自然に充足に意識が向くようになる。
それは、強いメンタリティーが必要なわけじゃない。
でも、しつこく、しつこく、しつこく、充足に興味を持つ。
無意識に不足を見てしまっている事に気づいたら、自分を責めるのではなく、淡々と充足に向ける。
注意点があるとすれば、やはり願望を叶えるために、という部分だ。
これが、自分の意識に浮上してくるのは仕方がないことだが、これが充足を見る、の邪魔をする。
たいてい願望は、○○がないので、それを満たしたい、という形が大半だ。
すると、願望を叶えるために充足を見る、というのは、明らかに矛盾する。
それは、不足を見ながら充足を見る、という事だからね。
あなたの意識を占めているのは、不足の方だ。
充足を見るというのは、ただの手段であり、それを願望を叶えるためにすると、ただの修行のようなものだ。
そんなのは、充足でもなんでもない。
とはいえ、最初の動機として願望を叶えたい、という思いがあるのはしょうがない。
あとはいかにして、不足から意識を逸らしていくか。
充足に興味を持てば持つほど、不足から意識が離れるようになっていく。
結果として、あなたが経験することは、どんどん望ましいものになっていくという事です。
ストレスが溜まるようなら、充足をみる、というところに、こだわらなくてもいいと思う。
仕事が出来る自分にシフトしましたが、仕事でアクシデントを起こしました。
こんなアクシデントは全然望んでないんですが、これも私の内面が現実に投影した結果でしょうか?
シフトは、現実を変えるために、という視点が入ると、シフト出来てないからね。
あなたが仕事のできる自分にシフトしたのはなぜだろうか?
それは、仕事のできない自分だと、自分が自分に定義しているからじゃないだろうか?
仕事のできない自分という現実を変えるために、仕事のできる自分にシフトした、これを言い換えると、仕事のできる自分になるために、シフトという手段を用いた仕事のできない私、ということだ。
現実を変えるために、という部分が盛り込まれるだけで、シフトしたつもりが、まったく逆の立ち位置をとっている、という事は、多くの人が経験する罠のひとつだろう。
クレさんがいう「心のゆとり」、それはつまり、重要度が低いという事だ。
そうなってもならなくてもいい、ぐらいの気持ちだ。
そこに必死さがないという事だ。
私の趣味はシフトすること、現実は変わってませんけどね、私はシフトするのが好きなだけなんだから別にいいでしょ、っていうメンタルでちょうどいい。
これがメンタル的な部分で、テクニカルな部分に関して言えば、前提を変える事だ。
仕事ができるあなたなら、何を考えるだろうか?
仕事が出来るなら、仕事について出来るかどうかを心配することもない。
仕事が出来ることを知っているあなたなら、ランチは何にするか、休日は何をして過ごそうか、そんな事に思いを巡らすだろう。
お金持ちのあなたなら、どうやってお金を手に入れるかなんて考える必要もない。
お金を何に使うかを考えるだろう。
前提が変わるのだから、そこから発想される事も変わるという事だ。
あなたにとって重要な事で、どうしても必死さが出てしまうなら、あなたには、その願望でシフトすることは向いてないかもしれない。
重要度の低いものから、やってみた方がよいかもね。
現実のAという状況を修正したい場合、Aとは関係なく、幸せな状態であればいいのですか
それでいいよ。
特にAという状況が、あなたにとって不都合なものであるならば、Aという状況から意識が離れていった方がいい。
幸せ=充足、不幸行こ不足、とするならば、充足と不足は、シーソーのような関係にある。
あなたの意識を充足が占めれば占めるほど、不足に意識が向かなくなる。
今あなたにとってAという状況が問題だと感じている。
当然あなたの意識には、節目節目に、Aという問題が浮かび上がるだろう。
それが無視できる程度のものならば、そこに意識がいっている事に気づくたびに、Aという問題の事はおいといて、幸せな事に意識を向ければよい。
引き寄せの法則とは、それ自身に似たものを引き寄せるから、あなたが幸せなことに今目を向けるなら、そこを起点として、幸せな思考が引き寄せられる。
つまり、充足に意識を向けるにしろ、不足に意識を向けるにしろ、勢いがつくということだ。
もしかしたら、今はAという問題に対して意識が向いていて、少々勢いがついているかもしれない。
だからといって、スタート地点は、常に今だ。
最初は充足方向に、なかなか勢いがつかないと感じるかもしれないが、徐々に勢いがつくようになる。
数学における比例のグラフではなく、2次関数のグラフのようにね。
充足方向に勢いがついてしまえば、あとはそれほど面倒くさいとも感じなくなる。
あなたはこれまでに、何度か結果的にはなんとかなったという経験をすでにしているわけだから、問題を神に預けるという事に対して、前より抵抗が少なくなってるんじゃないかな。
幸せな状態でいる、という事に高いハードルを感じる場合は、時間を区切るのもいい。
例えば休日に、今日1日は、そのAという問題について考えるのをやめるとかね。
それも難しいなら、午前中だけ、とかでもいいし、一時間だけでもいい。
かといって、考えてしまっても自分を責めない。
あ、今考えてたな、と気づくだけでいい。
力まず、ストレスなく、やれる範囲でやったらいいよ。
なんかつらいと感じたら、ハードルを下げることだ。
ハードルは必ず自分で設定してるから、自分で下げればいい。
結局現実を作っているのは、思考ですか、それとも感情なんですか?
108さんの言葉だけど、あなたの現実を創造しているのは、あなたが何を感じているかということだけです、ということだ。
だから、感情が近いんだけど、感情というふうに切り離して考える必要もない。
何を感じているか、というのは、現実とは○○だ、とか、私は○○な人間だ、と感じている、様々な信念の集合体だ。
単発で、こう考えたから、とか、こういう感情を持ったから、とかで、現実が作られるわけではない。
その信念の集合体を認識と言い換えることも出来る。
たとえば、私は復縁したー、バンザイ、と思考しても、あなたの認識は復縁していない、であれば、あなたが経験する事は、あなたの認識に沿ったものとなるだろう。
だからといって、この認識があるからダメなのねー、と思う必要もない。
なぜなら、認識自体が、毎瞬毎瞬変わるものだからだ。
あなたがその認識を保持しようとしない限りは、認識自体が移り変わっていく。
そして感情は、その認識が別の領域、あるいは、神の意向に沿ったものであるならばポジティブに、そうでないならば、ネガティブになるというだけだ。
ネガティブな感情とは、そんな幻想信じちゃいかんよというメッセージだと思って受け止めればいい。
細かく説明してみたけど、あんまり深く考えずに、ゆるーくいこう。
自己観察をするなり、自愛をするなり、ゆるーくいこう。
今少しでも楽になるための、自分なりの方法を見つけよう。
*108以外*質疑応答【3】
https://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/10211/1298649558/
962 名前: もぎりの名無しさん 投稿日: 2011/05/27(金) 21:28:40 ID:d812tbjw0