私は今、無職なのですが、楽にお金を手に入れている自分になるために、どういうふうにしたらいいのか分かりません。
あなたがそれになるために特にすることはありません。
なるだけです。
あなたがそれになるとき、それは前提になります。
前提なのだから、あなたがそのために何かする必要はないわけです。
なっていない、今の私と、なっている私がいるんですが、普段の過ごし方がよくわかりません。
二人の私を使い分けるわけではないです。
気分を味わうわけでもない。
それは振る舞うとか、なりきるですよね
お金に不足感を感じたときの考え方や言動が、どう変わるのですか?
何も変わりません、
というか、不足感とは無縁です。
金持ちが、モテないという不足を感じるならまだしも、あなたの理想とする金持ちが、金に不足感を感じるなど、本来ありえません。
つまり、金に不足感を感じるとき、あなたの自分への認識は金持ちではないということです。
もっとも、不足感を感じたら、また金持ちになればいいだけです。
クレさんが、お金を持ってる自分になって、欲しいものを買っていた、というのがあったけど、自分はとてもじゃないけど、怖くて出来ないです。
どうやって思考や言動を変えていけば良いのでしょうか。
怖いことはしない、無理はしない、これは基本です。
私は確かに、何も気にせず食べたい物を食べ、飲みたいものを飲み、欲しいものを買いました。
でも、あなたがそれをやる必要はない。
思考や言動を意識的に変えるのではなく、認識を、レッテルを、変えるんです。
あなたの前提を、設定を変えるんです。
金持ちになったとき、あなたの前提が金持ちになるんです。
なってみても、日常を過ごしていると、不足感が蘇ってきたりしますよね?
なったら不足感はありません。
前にもいいましたが、不足感とは無縁です。
あなたが金持ちである姿を想像してみて下さい。
お金に不足を覚えますか、覚えようがないはずです。
また、これも言いましたが、不足を感じたら、またなるだけです、それで終わりです。
私があなたなら、クレの言うことは聞きません、
なるとか考えません。
自分に無理強いはしないからです。
とはいえ、一応答えますが、なることに、どうやったらいいのかも何も、ありません。
あなたはどうやって息をしてるか、考えたことありますか?
どうやったら息をできるか考えて息をしてみて下さい。
と、考えてる間にも息をしてるでしょう、それくらい当たり前に金持ちなんです。
日常での過ごし方などは関係ないんです。
金持ちに決まった過ごし方なんかありますか、ないです。
あなたが生きたいように生きればいい。
ここからは、なるの応用編みたいなものを説明します。
あなたが聞きたいのは、金持ちになっても買いたいものが買えないということでしょう。
私がイメージは不要、イメージは時に人を定形化する・というのは、ここに理由があります。
金持ちなら○○なはず、という観念に基づき、あなたは○○できているのかどうかを、金持ちの判断基準にします。
金持ちなら好きなものを買える、だけど、私は買えていない。
そこにあなたは現実とのギャップを感じます。
なることで作ったはずの前提を、あなたは崩します。
よって、私は金持ちではないと判断することになる。
この三段論法がいらないんです。
そのためには三段論法の大前提を崩すことです。
金持ちなら好きなものを買えるというのは、いりません。
もちろん、イメージに囚われない人ならいいんですが、金持ちはこうあるべきというものを勝手に作って、なったことを帳消しにしてたら意味がないです。
自分は金持ちじゃないと言いながら、勝手に作った金持ち像を持ち出して来るのは、そもそもおかしいんですよ。
そして、それに自分を当て嵌めて、ほら金持ちじゃないでしょう、どう折り合いをつけるんですか、どうやって金持ちだと思えばいいんですか、って、単なる思い込みを前提にした話と、何も変わらないです。
私がここまで言っても、あなたはなおも立ち止まることがあるでしょう。
それでも私は買いたいんだ、とね。
えーー、私の話は全スルーですか、と言いたくもなりますが、そういうことは私にもあったので、あなたの気持ちはわかります。
そういうときには快の出番です。
ここで使うのは、いわゆる感情ナビというものです。
買うか買わないのか、あなたは色んな思いが錯綜します。
そこで、どちらが快かで、買うかどうかを決めます。
今それを買って快いのかどうか、それとも、買わないのが快いのかどうか。
そしてあなたは、快いほうの行動を取ります。
先ほども話したように、買うかどうかと、あなたが金持ちかどうかは、次元の違う話です。
というか、そもそもそんなことはどうでもいいんです。
快い方を選択することを重ねれば、間違いありません。
現実が内面の投影なら当然です。
強いていうなら、これが日々の過ごし方です。
私は今でも、好きなときに好きなものを買います。
買わないときもあります。
それは私が、快いかどうかが基準です。
もう私にとっては、金持ちなのかどうかは関係ないんです。
そういうレッテルすら不要です。
快いと判断して買って、私は大喜びしますが、金の出所は知りません。
勝手にプロセスは起きてきます。
過去なり、未来なりが、勝手に調節してくれます。
おそらくあなたは、すぐには飲み込めない話でしょう。
実際には、大したことは言っていません。
ご自身でゆっくりかみ砕いて、自分のものにしてくれると嬉しいです。
今すぐ5000万円の車を買いたい、それは快だと思ったとしたら、どうすればいいですか?
買えばいいじゃないですか、快なんでしょう?
そんなに欲しいなら、残りは借りるなりなんなり、用立てればいい、
後で返せばいいんだから。
しかし、もっといえば、それは全然快くないでしょう?
快なのに躊躇する、それは全然快じゃないでしょう。
例えば、Aというものが買える自分になるとします。
なったんだから買える、
でも現象化するまでは買えないです。
これってどういうことですか?
- Aが買える自分になる。
- なったんだから買える。
- でも現象化するまでは買えない。
2と3は完全に矛盾している。
買えるんだから、買いたきゃ買えばいいんだよ。
金がないからできないと言うなら、借りればいい。
金は後から入ってくるよ。
それで借金を払えば、理論的にも経験的にも同じだ。
どう思う、すげー胡散臭いでしょ。
怖いでしょ、危険な香りがするでしょ。
でも、私は嘘は言ってないんだよ。
しかしだ。
胡散臭い、危険だ、借金するのは嫌な感じがする、そんな気持ちを持ちながら借金してまで買ったら、大変なことになるでしょう。
多くの人が無視してやまない心のゆとりは、ここで意味をなすんです。
金はなんとかなる、なんとかならなくても別にいいや、という心のゆとり。
買えるけど、まあ今は買わなくてもいいや、という心のゆとり。
これによって、買う金がないという観念に直面すること、借金してまで買う恐怖に直面すること、再び認識を変更してしまうことを、無意識で回避しているわけです。
108式メソッドには、少なくともマイナスの現象化を引き起こさないカラクリが仕込まれているらしいけど、なるには、もともとそんなものはなく、場合によってはマイナスの現象化があるよ。
なるは、そもそもの始まりは、私の遊びと実験だからね。
そこで、他人に伝える際に私が付け加えたのが、心のゆとりというものだ。
切羽詰まった人には向かない、無理はしない、と言った、私の発言が繋がってきたかな?
私は現実は内面の投影であるという・ただ一つの仮定的事実から、「望む私」になれば、実際にそうならないわけがないという事実を導きだし、実践し、どうやらそうみたいなのでそのまんま伝えてみたわけです。
逆に言えば、ただそれだけのことです。
さて、もうお分かりでしょうが、あなたの例えでは、結局あなたは、買えない私のままです。
よって、あなたは、Aを買えません。
そして、心のゆとりがないわけです。
ちなみに、心のゆとりは、なるための必要条件というよりは、
なると心のゆとりが湧くもんです。
だって、買えるのが前提であり、それがデフォルトだからね。
なので、なる前にゆとりがなくとも、なったらゆとりが湧いてきた、ということもあります。