自分が信じられれば、絶対的な法則が作れるんでしょうか
法則云々については殆ど考慮していません。
「何々をすれば何々になる」という言葉自体には、大した意味がありません。
人の数だけ法則はあるし、どんな法則を創ろうが自由だ、というのはその通りだとは思いますが、それを考え出すと、エゴの堂々巡りになるからです。
ちょっと語弊がある言い方ですが、法則を信じている、信じたいのは結局はエゴなんです。
もちろん書けと言われれば、法則だとかメソッドの類なら、いくらでも書くことが出来ます。
願望の実現のために、どのようにしているのでござるか、と言われれば、「周りの人に親切にしています」とか、「誰にでも自分から挨拶に行きます」とか、「空も街並みも素晴らしいと感じています」とか、「すべてのものに愛情を感じています」とか、「一日三食きっちり食べてます」とか「すき屋のチーズ牛丼がおいしいと感じます」とか、言葉では、そう答えざるを得ません。
ただ以前から度々話していた、認識が変化している事が前提としてあるので、そうでない場合、エゴが言葉をそのまんま受け取って、「そのまんま実行すればいいのか?」と勘違いする事が殆どです。
そうなると、結局は青い鳥を求める終わりなき旅が始まってしまいます。
もし、「なにが一日三食メシ食ってるだ、なにがチーズ牛丼だ、くだらねえ、俺は劇的なメソッドを知りたいのでござる」と感じた人は、認識の変化を起こすチャンスです。
「私は常に愛を感じています」、「全て完璧と感じましょう」というのを、「素晴らしいメソッドだ」と感じて、「牛丼を食え」というと、「こいつ馬鹿だ、お笑いでござる」と感じるのはなぜでしょうか。
それを感じて、無意識にフォルダ分けして、分離を起こそうとしているのは何か、という事に気付いてください。
ビー玉が行きたいなら、板である腕=空間が、右へ傾ければいいのは分かりましたが、どうやって板を傾けるのでしょう?
それは、転がってる玉(=エゴ)を、無くしてしまえば良いのです。
玉を転がすというのが、いかにもコントロールが必要な印象を与えてしまったようですが、実際には、認識が変われば、玉(=エゴ)自体は無くなります。
私程度では、エゴが完全に無くなっていませんが、既にエゴと自分を同一視はしていない、というか、出来ないので、子供のイタズラを、笑ってスルーするような愛おしさを、エゴに対して感じています。
ある程度認識が変化してきた人でも、その人の中で譲れないもの、これだけは無くしたくないという、いわゆる本願とか言われているものが、根強く残る場合が多いようです。
例えば、家族をとても大事にしている人が、認識の変化を経験し、実は生まれてなんていなかったでござる、全部エゴのまやかしだったでござる、全部完璧でござる、と言っているとします。
その人に対して、あなたは本当は生まれても無いわけだから、奥さんや子供も本来は存在しないんですよね、とか言うと「とんでもない事を言うな」と、過剰に反応する場合があります。
これは、認識の変化によって居場所を失ったエゴが、最後のあがきとして、その人が最も大切にしている願いを利用しているケースです。
「私は世界が自分であると認識した、ウヒョー」に対して、「じゃあそれを利用して、本願を叶えましょうや、ウヒョー」と知らず知らずのうちに、巧妙にエゴが寄生するのです。
認識の変化の初期は、強い幸福感を感じるものです、その幸福感に紛れて、「こんなに幸福なら、本願だって叶うよ、イヒヒヒヒ」と潜り込むのです。
これでは、優秀なメソッドを探すでござる、見つけたでござるの、エゴの堂々巡りと何も変わっていません。
「叶える」という概念がある以上、それは不足を求めているのと同じです。
これでは、ただ単に言葉が変わっただけで、認識は1ミリも変わっていません。
では、自由意志を越えた領域に潜り込むには、どうすれば良いのでしょうか。
誤解を生む可能性があるので、「願望実現」という言葉はあまり使いたくないのですが、「願望の実現を言葉にせよ」と言われたら、「静寂の中で、静寂を知る行為」と言えます。
静寂は、それを静寂と認識するものがいないと、静寂になり得ません。
それと同じく空間も、それが空間であると認識するものがいないと、空間となり得ません。
呼吸も、それが通過する肉体が無いと、呼吸となり得ません。
では、何故まわりが静かだと、静寂を創れるのでしょうか。
何故、空を見上げると、空間に青空が広がっていると感じるのでしょうか。
何故、呼吸すると、呼吸という概念が瞬時にわかるのですか。
何故お金という言葉を見たり聞いたりすると、一万円札が浮かぶのでしょうか。
そもそもなんで、一万円札とわかるのですか。
色でわかるのですか、形でわかるのですか、紙だからわかるのですか、諭吉のオッサンが書いてあるからわかるのですか。
じゃあ、それらの概念を瞬時に創っているのは誰ですか?
そして瞬時に、未来だとか、過去だとか、判断しているのは誰ですか?
時間も、時間を感じるものがいないと、時間は成り立ちませんよね。
そして今は、それを持っていないとか、持っているとか判断しているのは誰ですか?
一体誰が、静寂を静寂たらしめて、誰が空間を空間たらしめて、誰が呼吸を呼吸たらしめて、誰がお札をお札たらしめているのでしょうか?
自由意志で行っていると思っている誤解の元の全ては、ここにあります。
「何々をやろう」とか、「何々を得よう」とかいうのは、「瞬時に浮かんだ思考やイメージに操られているに過ぎない」という事です。
言葉にするのが難しいですが、普段、普通に呼吸する時は、特に何も考えてないと思います。
呼吸した後に、呼吸という思考、概念、イメージを、それにくっつけて、「ああ、呼吸している」と感じるわけです。
なんで、それが浮かぶんでしょうか?
自分が創ったからですね。
そして、名前を付けられない「それ」に、思考や概念やイメージをくっつけて、いかにも「これがあなたの真実だよ」みたいな顔をしていたのがエゴだったんです。
世界は、自分の内面で創ったそれが、そっくりそのまま投影されていただけだったのです、自分こそが、それだったのです。
それに気付く事が出来れば、紛れも無くこの世界は自分であり、自分だけである、という真実が見えてきます。
いいもわるいもなく、全ては完璧としか言えない宇宙が、本当の自分です。
何処にもいなかった意識というのは、なんですか?
あなたの両親が生まれる前に、あなたは何処にもいなかった意識として、いたんです、と言われても、「何が何だかさっぱりわからん」と浮かぶなら、それが正しい答えです。
あるいは、「いや、拙者は伊賀の里にいたのでござる」と浮かぶなら、それも正しいです。
この質問の狙いは、その答えが浮かぶ前の意識を感じて頂きたいのです。
ですから、映写機云々や、その他の内容も、この意識に対するフィーリングを感じて、単純な認識の変化を感じて頂きたいのです。
私が話した内容をメソッドのたぐいだと思って、それらを体現しようとしてはいけません。
メソッドを追い求めると、高い確率でメソッドによってエゴまみれになります。
「私、メソッド知ってる人、出来る人」、「あなた、知らない人、出来ない人」という、明確な分離が始まるからです。
ただ認識の変化云々とかは、どうしてもメソッド的な表現になってしまうのが苦しい所です。
本来は、最初から、在るのです。
何故なら、在ると感じているものしか、自分が創造している世界には現れないからです。
「じゃあ何で、俺の願望は叶わないのでござるか?」っていうと、それは紛れも無く、自分自身が創ったから、望み通りの世界が出来ただけです。
時計を見れば時間を創り、それに伴い、過去、未来を創り、それに他人が絡んでくれば、あの人を創り、あの人はこういう性格で云々と創り、だからあの人がいると、何々で嫌なんだよなー、と創り、ああ嫌だ、願望実現の本でも読もう、という、連続ストーリーを創り上げています。
実際には、瞬間、瞬間にエゴが介入し、いかにも続き物のような話を創り上げているだけです。
何度も話していますが、全部エゴのまやかしです、それに気付けばいいのです。
エゴのストーリーと、本当の自分には、何の関連性もありません、
本当の自分は、連続ストーリーを眺めているだけで、ずっと静止しています。
誤解を招くかもしれませんが、豊かさや愛情といった感覚も、感じようと思えば感じられるはずです。
エゴが勝手に話を進めても、本来関係ないのですから、それによって、それらの感覚が妨げられる事はありません。
なんで「豊かさ」あるいは「愛情」という感覚を感じられるのに、わざわざ、「何々をしなければ、何々を得られない」、あるいは、「いつか、そのうちに感じられる」とか、「もっと優れたメソッドを見つけないと!」とか、「桑田の顔になればいいのに!」とかのレッテルを貼るのですか。
感覚を感じられるって事は、在るから感じられるわけですよ、無かったら感じられるわけ無いですよね。
花を見て美しいと感じられるのは、花が美しいのではなく、あなた自身が美を持っているからです。
お金を見て豊かさを感じられるのは、あなた自身が豊かだからです。
世界は常に自分自身です。
ですから、最初から起き上がりこぼしのように、完璧なバランスがとれているのです。
起き上がりこぼしを立たせたかったら、あれこれ押したり引いたりせずに、何もしないのがベストなのです。
起こって欲しい事、他人にして欲しい事を、自分から周りに対して行うのがいいんですか
それをやる、やらないは、大した問題ではないです。
認識が変われば、他人という概念は薄くなるので、自然と親切になるという事だけです。
やらなくてはならないメソッドとかでは無いので、その辺は誤解しないでください。
例えばあなたが前に歩けば、前方の空間がどんどん、あなたに吸い込まれていきますよね。
あなたと世界が、まるごと同じだからです、そして、それらの概念を創っているのが本当の自分です、全てを創っているわけです。
それって一体どういうことなの?
「それって一体どういうことなの?」と感じて、意味がわからなくても大丈夫です、
意味がわからないほうが、却って変化のチャンスでもあるかもしれません。
ですから私の話した言葉を、説明書やメソッドを学ぶような感じで聞かないほうがいいです。
今、私が話した言葉を聞いて、「それって一体どういうことなの?」と思ったのは、今までエゴが作り上げた経験則で判断し、「意味わからん」と思ったわけです。
まさに、意味わからんものを、瞬時に創ったではありませんか。
これで、全ては自分の内面の投影であり、全てを瞬時に創る事が出来ると証明されました。
その創ったものが、エゴによって脚色されているか、そうでないか、というだけです。